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2019年12月10日03:24

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【そもそも人間学とは何か】 社会の直視と出処進退

知古嶋芳琉です。

 ここでご紹介するのは、安岡正篤師のご著書で、

『人間としての生き方(現代語訳『東洋倫理概論』を読む)』

の一部です。

−−−引用はここからです−−−

第二編 敬義 中年の倫理

第二章 社会生活

 第二項 社会の直視と出処進退

 ○ 自己の社会撮影

 あたかも鏡にくもりがなければ対象をよく写すように、

自己の生活が純粋に素直になれば、はじめて社会は

そのありのままの姿を現す。

いかにも荀子にある言葉のとおり、

人は真の自己に立ち返らないから、

(富貴・名誉・利益などの)外物にばかり心を奪われ、

物事の表面だけに眼がくらんで途惑(とまど)う。

わけもなく富貴にあこがれたり、

王公を畏(おそ)れたりするのは、

自己が純直でない証拠である。

 ○ 売柑者(ばいかんしゃ)言

 「杭州(支那浙江省の省都)に果物屋があった。

密柑をかこっておくことの名人で、

寒さ暑さを過ごしても駄目にならない。

いつ出しても肌は玉の如く金色に光っているので、売りに

出せば市価の十倍もした。人々は争ってこの果物を買った。

 自分も一つを買って、剥(む)いてみると、

変な煙のようなものがつんと鼻を衝(つ)いて、

その中を視ると、

ひからびて敗綿(ふるわた)のようになっている。

自分はけしからぬことと思って詰問した。お前の売るものは

器に盛って祭祀に捧げ賓客に供えるためか、それとも

外だけ飾って

(ものが見分けられない)愚か者をだますのか。

詐欺(さぎ)もまた酷(ひど)いではないか。

 すると彼は笑って、

私は幾年もこれで生活しているのですが、

まだ文句を言われたことはありません。

ところが、あなたのところに限っていけませんか。

いったい詐欺する者は、世間に、少なくありません。

私ばかりではありませんよ。

あなたはまだそれを考えないのです。

どうです、

虎の紋の割符を佩(お:身につける。腰に下げる)び、

虎の皮の敷物の上に座っているところは立派な将軍ですが、

果たして孫呉(そんご:孫子と呉氏、春秋時代の兵法家)の

計略を授けることができますか。

 大きな冠をそびやかし、長い帯をひくところは

見かけは天晴れ(あっぱれ)大臣の器ですが、

果たしてよく伊尹皐陶(いいんこうよう:伊尹は殷の賢相、

湯王を助けて桀を討ち、

皐陶は、帝舜の臣、司寇(しこう:法務の長官)となった。

ともに支那古代の賢人)の功績を成し遂げられますか。

盗賊が起こっても禦(ふせ)ぐことを知らず、

民が困(くるし)んでも救うことを知らず。

役人が姦(よこしま)なことをしても禁ずることを知らず、

法が守られなくても理(おさ)めることを知らず、

何もしないでお倉の米を食い潰しながら恥を知らない。

政務を執る立派な部屋(高堂)に座って、立派な馬に乗り、

おいしい酒に酔い、美味に飽きるところをみれば、誰しも

その威勢にうたれ、

それと同じようになりたいと思わない者はありませんが、

またどこへ往ってもその外を金玉で飾り、

その中を古綿にしない者がありますか。

それに貴方はここのところを察することをしないで、

私の密柑だけをとやかくおっしゃるのですか、と言った」。

 ○ 漁父

 『楚辞(そじ:支那戦国時代の楚の屈原(くつげん)と

その後継者たちの詩を集めたもの)』が

永遠に人を動かすのも、

それが常に人知れない心の中の純真な魂に訴える

文学だからである。

「あなたは三閭(ろ)の大夫(たいふ:楚の国の三豪族の家の

長者)ではありませんか。いったいどうなされたのです」と、

ある日にうらぶれはてた屈原(くつげん)の姿を発見した

老人の漁夫が驚きの声をかけたとき、

「どうしてと言って、世を挙(こぞ)ってみな濁っている。

私独り清(す)んでいる。衆人はみな酔うている。

私独り醒めている。それだからこうなったのだ」と

屈原は寂しく答えた。

「大夫、聖人は事物に凝滞(ぎょうたい:こだわりとらわれる)

しないでよく世とともに推移するものです。

世の人がみな濁っているならば、

何故あなたもその泥をにごし、

その波をはねて行かれないのですか。

衆人がみな酔っているなら、どうしてあなたも一緒にその

糟(かす:酒のしぼりかす)を食らい、そのしるをすすって

行かれないのですか。

どうしてそんなに深く考え、お高くとまって、自分から追放され

なければならないようにされましたか」

「いや、私には何もかも分かっている。けれどもね、新に

沐(もく)せし者(髪を洗いたての者)は必ず冠を弾じ

(冠のちりをはじき払い)、

新に浴せし者(湯浴みしたての者)は

必ず衣を振るう(衣の塵を振り落とす)と言うじゃないか。

どうして純潔なこの身にものの汚れを受けることができよう。

むしろ湘流(しょうりゅう)に身を投じて、魚の腹に葬られても、

どうして潔白なこの身に世俗の塵や埃(ほこり)をかぶること

ができるだろう」。

これを聞いた漁夫はにっこり笑って、

船べりを叩いて歌いながら漕ぎ去った。

「滄(そう)浪(ろう)の水清ければ

その水でわが纓(えい:冠の紐)を洗うべし。

滄(そう)浪(ろう)の水、

濁ればその水でわが足をあらうべし」と。

 ○ 純直なる生活と社会の迫害

 屈原のこの歎きは、

我々が止むに止まれぬ純直な心から俗世に深入りするほど

堪え難くなる。

凡庸な人間は、

みそさざいが大鵬(想像上の大きな鳥の名)を

嗤(わら)う(あざけり笑うこと。嘲笑)ように

志ある者を余計な苦労をする奴だ、

柄にもないことを考える奴だと嘲(あざけ)る。

 いったい人間には競争心があって、

負ければ自己の弱小を感じて堪え難いところから、

絶えず勝とう勝とうとあせる。

自分が負けそうであると相手を妬(ねた)む。

忿(いか)る(腹を立て、うらむ)。

何とかして彼を傷つけようとする。

相手が手強いと、そういう弱者小人が相集まって、

おのおの弱点でしっかり結合しながら、

あらゆる奸策(かんさく:悪巧み(わるだくみ))を

廻(めぐ)らす。

ところが君子は心が光明であるから、己一人で不安がない。

 自然、結束力に乏しく、いつも孤独に陥り、

周囲から迫害されて、悲惨な境遇に陥りやすい。

 昔からおよそ現在に甘んじないで、

理想に向かって精進した人に、

唯一人として迫害を受けなかった者があるだろうか。

彼らはみな周囲から理解されず、冷たく嘲(あざけ)られ、

酷(むご)く悩まされ、往々生命を奪われるに至っても、なお

止むに止まれずに

勇往邁進(ゆうおうまいしん)したのである。

 穏やかで、心正しくうやうやしく、つつましい謙遜の人と

称(たた)えられ、平和の権化(ごんげ)のように

世間から考えられている孔子が、実際はどうであるか。

故郷の魯(ろ:春秋時代の国名。孔子の生国)の人々は

孔子を少しも知らずに、

「東家(とうけ)の丘(きゅう:孔子の名は丘)」ぐらいにしか

考えなかったと言われている。

また、それこそ身命を忘れて人間の覚醒・社会の革新に

奔走している彼を、

汝も佞(ねい:口先が巧い。へつらう)をなすかと皮肉ったり、

余計な苦労だと

冷ややかな眼で見る者がやはり少なくなかった。

それどころではない。

各地を周遊中、

いかにしばしば生命の危険に瀕することが多かったか、

いやしくも『論語』を一読したならば、

何人も思い半(なか)ばに過ぎるものがあろう。

彼の愛する弟子たちでさえ、果たしてどれほど徹底して師を

理解することができていたことか。

 ○ 堯、舜に問う、人情如何

 堯(ぎょう)が、舜(しゅん)に

「人情は如何(いかん)」と問うた。

舜が答えて言うには、

「人情は大変よくない。また何を問うたらよいのだろうか。

妻子が供わって親に対する孝が衰え、

嗜欲(しよく)が先立って友に対する信が衰え、

爵位や給料が十分になって君に対する忠義の心が衰える。

人の情けは、誠になんと美しくないものか。

また何を問うたらよいのか」(『荀子』、性悪篇)と。

最後まで読むに堪えない文章である。

 ○ 道の不滅

 しかしながら、翻(ひるがえ)って思えば、

王陽明も感奮(かんぷん)しているように(『抜本塞源論』)、

「人々の心に在る天理である道義の心というものは、

どんなことが在っても無くすことはできない」ものがある。

人間はどこまで堕落しても人間である。

鬼畜になることはできない。

時によっては涙も出る。

時によっては憤(いきどお)りも発する。

恵まれた金をまたしても放蕩に使い果たした

杜子春(とししゅん)も、

道で以前の恩人に遭(あ)った時は、おもわず顔をそむけて

逃げ隠れようとする。

 ○ 独醒(どくせい) (独り目覚めた)

 世の中がいかほど堕落したといっても、やはり厳粛なる

あるものが民心に残っている。

衆人の中には稀に独醒の士もある。

顧炎武(こえんぶ:清初期の学者。明末の空論に反対し、

実用の学を主張した人)も、

「自分が、夏・殷・周の三代以下の王朝の歴史を観るところ、

世の中が衰え、道がほとんど行われなくなり、礼儀を棄て、

潔(いさぎよ)く恥を知る心がなくなるのは、一朝一夕にして

そうなるのではない。けれども、冬になり寒くなってはじめて

松や児手柏(こてかしわ)の葉が落ちてしぼむ、

鶏の鳴き声は、

風雨のはげしいあの暗い夜になっても止まない。

もとより未だかつて独醒の人格者がいなかったということは

ないのだ」と語っている。

 この厳粛なものを成長させ立ててゆけば、

人をも世をも救済することができる。

 ○ 出処進退の由来

 そこで我々は一度この自己内面の厳粛なるものに

立ち返るとき、自ら社会に立って職業に携わってゆく上に

いかに行為するべきかという、すなわち出処進退の問題に

逢着する(出会う)。

 ○ 出処進退の第一義、仁に立ち仁を成すこと

 出処進退にあたって、

我々は先ず自ら仁(心)に立たなければならない。

仁とは、一切を生成化育する造化(ぞうか:天地万物を

創造し育てる神霊・造物主・宇宙や自然の根本にある霊力)

の努力を体験してしっかりと心に飲み込み、

人が一切を包容し、敬愛し、

自ら少しでもより大きく生き栄えようとする努力である。

職業の意義がその職業を通じて仁を成すにあることは

既に説明した。我々が植木屋となるにしても、郭駱駝のよう

であって初めて真の植木屋である。

 ○ 種樹(しゅじゅ:草木を植える職人)郭駱駝伝

 郭駱駝(かくらくだ)は、

はじめ、何という名であったか判らない。

 せむしを病んで、背中を曲げて歩く恰好(かっこう)が

駱駝(らくだ)に似ているので、人がみな、駱駝、駱駝と

呼んだ。これを聞いた彼は、それは面白い。

なるほどよく当たっていると言って、みずからもそのように

名乗ったということである。

その郷を豊楽郷(ほうらくごう)といい、長安の西にある。

そこで彼は植木屋を営んでおった。ところが、長安の金持ち

や果物商人などで彼を珍重しない者はなかった。

というのは、彼の植える木は、

あるいは移植してもつかぬということはない。

かつ、非常に茂って、早くまた沢山に実るからである。

 そこで他の植木屋などが見習って種々やってみるが、

どうも及ばない。そこで、ある人がどうしてそういう具合に

ゆくものかと聞いてみたところが、彼は答えた。 いや、私が

よく木をつかせ、茂らすわけではない。

私はただ木の天(生まれつき)にしたがってその性を

発揮するだけだ。いったい植木の性というものは、

その根本は舒(の)びやかに、その培うことは平らかに、

その土は故(ふる)く、

その苗床作りは

細かい点にまで行き届いていることが望ましい。

そうしておきさえすれば、後は動かすことも、気遣うことも

要らない。立ち去ってまたと顧みないのがいい。

蒔く時は子のように、置けば棄てたようにさえすれば、

その天は完全で、その性も得られる。

だから私はその成長を害しないのみで、よくこれを大きく

茂らすのではない。

その実るのを押さえつけたり減らしたりしないだけで、

早く、たくさん実らすのではない。

他の同業者はそうではないのである。根は拳(かが)まり、

土は易(かわ)り、

これを培う(つちかう:《「土(つち)養(か)う」の意》

1 根元に土をかけて植物を育てる。2 大切に養い育てる。)

にも程度が過ぎたり不充分だったりがある。

そうでなくても、可愛がり過ぎたり、心配しすぎたり、

朝に視て暮に撫で、立ち去るかと思えばまた顧み、

はなはだしい者になると、

膚(はだ)に爪を入れて

生きているか枯れているかを験(ため)したり、

根本(ねもと)を動かして土の疎密を視たりするものである

から、木の性は日が経つほどに離れるのである。

愛するというが、実は害(そこな)っているのであり、

心配するというが、実は仇(あだ)となっている。

だから私に及ばないのであって、私がまたそれ以上のことを

どうしてできようか。

 これを聞いて感心した質問者は、それではお前さんの道を

政治に適用したらどうだろうと言うと、彼は答えた。

 私は植木のことなら判るが、他のむずかしいことは

私にはできることではない。しかし、私は郷にいて

人の長(おさ)となっている人たちを見るのに、

好んでその命令を煩わしくしているようだ。

あれでは大変下々を憐(あわ)れんでいるようで、実は

結局

禍(わざわい)しているようなものだ。

それだから、下々は閉口して怠ける。

してみると、政治もどうやら私の職業と似ているようだね。

 質問者は感嘆した。

面白い。

私は樹を養うことを質問して、人を養う術を得たと。

 彼には樹に対して仁がある。

彼はその職業を通じて仁をなしている。

もし我々がかの宋清(そうせい)のように

薬屋ができればいかがか。

 ○ 薬屋宋清の伝

 宋清は、長安の西のほとりに住んでいた薬屋である。

よい薬を置くので、田舎からもみな彼のところへやってきた。

都の医者も彼の薬を使えば評判が好いし、

病人も彼の薬を飲めば早く治った。

 彼はそれらのあらゆる人々にいつもにこやかに接して、

金のない者にもよい薬を与えた。

そして、貸し金証文が山のように積まれても、一度も催促に

行かない。 面識のない者にも掛売りして平気であった。

年末になって回収ができないのをみれば、

証文を焼いてしまって、何とも言わなかった。

街の人はあまりに他と異なっているのを笑って、無分別な

人間だと言う者もあれば、あるいはまた

「いや彼こそ有道者なのだ」と言う者もあった。 

彼はこれを聞いて、

「自分は利を得て妻子を養っている人間だ。別に有道の人間

でもないが、自分を無分別な人間と言う者も謬(あやま)って

いる。自分がこの商(あきな)いを始めてから四十年。証文を

焼いた者も百数十人。その中には大いに立身出世している

者もあって、随分私に贈り物もする。

直(じか)に返礼するとまではゆかなくとも、自分の与えた

薬のおかげで随分命拾いした者も多く、したがって追々には

収入も殖える。自分は利し方が遠大なので、けちな商人とは

違う。

彼らは一度値(あたい)を得られないとすぐさま腹を立て、

二度となれば早速喧嘩(けんか)をする。

何と商売があさはかではないか。

自分は無分別者はかえって世間にいることを知っている」 

こうして彼はその商道を易(か)えず、

果たして富裕になった。(『宋清伝』)

 ○ 職業の貴賤

 いかなる職業でも、仁を求めて仁を得ぬことはない。

(仁とは、一切を生成化育する造化(ぞうか:天地万物を

創造し育てる神霊・造物主・宇宙や自然の根本にある霊力)

の努力を体験してしっかりと心に飲み込み、

人が一切を包容し、敬愛し、自ら少しでもより大きく生き栄え

ようとする努力である。)

 その職業を通じて仁を行うことができることが偉大なほど、

その職業は貴い。

宰相の職が薬屋より貴いと考えられるのは、

宰相の職は一薬屋の到底及びもつかない、

大なる仁を行うことができるからである。

それにもかかわらず、

一身は宰相の職にありながら、

民の疾苦(しっく)を救うこともできず、

いたずらに俸給を費やしたり、あるいは、

その公器を弄(もてあそ)んで

私利私欲を恣(ほしいまま)にするならば、

それこそ街の一商人にも劣るもので、

職を辱(はずかし)め、身を汚(けが)し、

不忠不孝この上もないと言わなければならない。

 これに反して、我々は五反の田を耕しながらも、

真に仁を求めれば、凡庸な農夫の数倍の収益をも実現して、

国家の人口食糧問題の解決に大きな光明をも与えることが

できる。

質屋の主(あるじ)をしながらも、貧しい下層の人々に、

自由に、かつ、簡単に金融の便を与え、

もし宋清(そうせい)のようにやることができるならば、

同時にいつか富をなすこともでき、それに従って、

真に憐(あわれ)なる人々を救う大きな男気がある人物とも

なり得るであろう。

そうであるならば、農夫、市人も王侯と並んでも

少しの遜色もない。

 しかるに職業を通じて仁を求めることは、

一面、その職業が複雑なものであるほど、

他面、自己の学問教養が進むほど、苦しくなってくる。 

たとえば、米を作ったり、植木を育てたりするような

自然に即する職業ならば、何と言っても簡単である。

けれども、それがひとたび多くの人の子を教育するとか、

百官有司を統御して

天徳を援(たす)けてゆかなければならないというような

社会的な職業になれば、

事柄が複雑重大で、かつ相手が人間であるだけに、

いかに我々が誠を竭(つく)しても、

なかなか事が志のようにはゆかない。

 才が及ばない歎(なげ)きもあろう。

徳が足りない憂いもあろう。

思いがけない災難にあって死ぬこともあろう。

それは我々の学問教養の進むほど、

また痛切に意識される。

無学愚劣であれば、ひたすら衣食の営みに忙しくて、

仁を求める苦を理解できないだろう。

まことに人生文学を識(し)ることは

心配と悩みとのはじめである。

願ってもいないのに武門に生まれ、

弓矢取る身であればこそ、下々の知らない

苦労もしなければならない。

しかし、そこに人間の尊さが輝く。

出処進退とは、つまり、このような場合、

いかに仁に生きるかという問題に他ならない。

 ○ 存心と義

 出処進退の第一義である

「仁を求める」・「仁に立つ」・「仁に生きる」ということは、

もとより

単に観念に止まったり、感傷に終わることを許されない。

(仁とは、

一切を生成化育する

造化(ぞうか:天地万物を創造し育てる神霊・造物主・宇宙や

自然の根本にある霊力)の努力を体験して

しっかりと心に飲み込み、

人が一切を包容し、敬愛し、自ら少しでもより大きく

生き栄えようとする努力である。)

 それは

自ら

寸毫(すんごう:ほんのわずか)も

昧(くら)ますところのない

(これを存心と言う。放心=失心の反対)

明白な行為=義でなければならない。

{それは自ら寸毫も昧ますところのない

明白な行為=義でなければならない}

−−−引用はここまでです−−−


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