ホーム > mixiユーザー(id:1312884) > mixiユーザーの日記一覧 > 【そもそも人間学とは何か】 志はまさに高遠を存し <諸葛孔明>

mixiユーザー(id:1312884)

2019年11月18日15:06

9 view

【そもそも人間学とは何か】 志はまさに高遠を存し <諸葛孔明>

知古嶋芳琉です。

 今回ご紹介するのは、「達人の人生哲学」でも、

戦国時代の『三国志』に出てくる

「諸葛孔明」のお話しの続編です。

 出典は、安岡正篤師の講話録、

『知命と立命』(プレジデント社)です。

−−−ここからはその引用です−−−

■ 達人の人生哲学

 ○ 志はまさに高遠を存し <諸葛孔明>

 <孔明その外甥を戒むる書>

又その外甥(がいせい:妻の兄弟姉妹の男の子供。他家に

嫁した姉妹の産んだ男子)を戒むる書に曰く

「それ志は当(まさ)に高遠を存し、先賢を慕い、情欲を絶ち、

凝滞(ぎょうたい:物事の流れがとどこおって通じないこと)を

棄つべし、庶幾(しょき:心から願うこと)の情をして、

掲然(けつぜん:目立つようにはっきりさせる)として存する所

あり、惻然(そくぜん:あわれに思って心をいためるさま)とし

て感ずる所あり、屈伸を忍び、細砕を去り、諮問を広め、

嫌(けん:きらう)吝(りん:金銭などを出し惜しみするさま。

けち。しみったれ)を除かしむれば、

何ぞ美(び:姿・形・色彩などの美しいこと。非常にりっぱで

人を感動させること。

哲学で、調和・統一のある対象に対して、利害や関心を離れ

て純粋に感動するときに感じられる快。また、それを引き起こ

す対象のもつ性格)

趣(しゅ:おもむき:そのものが感じさせる風情。

しみじみとした味わい。全体から感じられるようす・ありさま)

を損ぜん。

何ぞ済(な)らざるを患えん、若(も)し志、強毅ならず、

意、抗慨(こうがい)ならず、

徒(いたずら)に碌々(ろくろく:平凡で役に立たないさま。

大した事もできないさま)として俗に滞(とどこお)り、

黙々として情に束(たば)ねられなば、

永く凡庸に竄(ざん:かくれる、のがれる)伏して

下流を免れざらん」

世の父兄子弟たるもの

斉(ひと)しく

当(まさ)に

肝銘(かんめい:心に深く刻みつけて忘れないこと)

すべきなり。

−−−解説−−−

 外甥(がいせい)は母方、妻方、

つまり親家に対する姻家である。

「それ志は当(まさ)に高遠を存し」

志、人間の理想、目的はできるだけ高く、できるだけ遠く、

高遠でなければならない。

目先ではいけない。

低くてはいけない。

「志は当(まさ)に高遠を存し、先賢を慕い、情欲を絶ち」

先賢は先輩の賢者。

肉欲・物欲をできるだけ整理し、捨てて、

「凝滞(ぎょうたい:物事の流れがとどこおって通じないこと)

を棄つべし」

凝滞(ぎょうたい)は凝(こ)り、滞(とどこお)ること。

人間は凝滞(ぎょうたい)をするといけない。

水でも凝滞(ぎょうたい)すると腐る。

血液でも凝滞(ぎょうたい)したら大変である。

いろいろの病気が続出する。

呼吸も凝滞(ぎょうたい)、跌(てつ:つまづく)滞したら

呼吸困難になって死んでしまう。

円通と言って円(まど)か(物事が滞らず、すらすら運ぶこと。

かどばらず滑らかなこと)に通じなければいけない。

「庶幾(しょき:心から願うこと)の情をして」

庶幾(しょき)というのは「こいねがう」「ちかし」とも読む。

すなわち、これくらいはできる、

これくらいはやってのけたいというのが庶幾(しょき)である。

すなわち、

一つの理想・志望・目的というもの、

つまり

志は志気・志情といって、

これは一つの力であり情熱がなければいけない。

唯(ただ)の志だけでは単なる観念になってしまったり、

空想になってしまったりして、

現実に力がない。

《気》というものは、

ものごとが創造されていく、

つまり

生み成されていくエネルギーのことをいう。

だから

志気、

現実の活発な溌剌たるエネルギー・力でなければならない。

いわゆる

気力でなければならない。

と同時に、そこには情熱というものがある。

だから

志はやはり気であり情でなければならない。

「庶幾(しょき)の情をして」というのは、

つまり

志気・志情・情趣のことである。

庶幾(しょき)の情、ことに感情が大事である。

感情はその人の全体の反映であるから、

「庶幾(しょき:心から願うこと)の情をして、

掲然(けつぜん:目立つようにはっきりさせる)」

掲というのは「かかげる」という字で、はっきりと掲げる。

「掲然(けつぜん:目立つようにはっきりさせる)として

存する所あり」

何を考えているのやらわからないようなのではいけない。

俺はこういうことに憧れているんだ、

こういうことを達成するんだという

理想・情熱をはっきりと存在せしめる。

「惻然(そくぜん:あわれに思って心をいためるさま)として

感ずる所あり」

惻というのは「いたむ」という字である。

それにしては俺はなっていない。

こういう邪魔があって思うようにいかないと

反省・不満、これが惻然(そくぜん)である。

残念に情けなく思う。

つまり

人間は良心的・情熱的でなければいけない。

「屈伸を忍び、細砕を去り」

これは、実に至れり尽くせりであります。

やはり

自分に真剣な体験があるからこそ、

こういう手紙が書けるわけです。

「屈伸を忍ぶ」というのは、

ある時は屈する、ある時は伸びる。

屈伸というけれども、ここでは屈という意味が強い。

理想を持つ者ほど、ぐんぐん伸びたい、

ところが

いろいろ妨害があって思うようにゆかないのが屈である。

それで感傷的になったり、激情的になってはいけない。

「細砕を去り」というのは、

細かく砕いた、

つまり

あまりに細かい、

わずらわしいことを去る。

細砕の中にはいろいろある。

小理屈なども細砕、小さな感情なども細砕の一つ。

日常のつまらないケチなこと、

小遣いがないとか、

映画も見られないとか、

コーヒーも飲めないなどということも細砕である。

そんなことで悲観しているようではしようがない。

「屈伸を忍び、細砕を去り、諮問を広め」

いくら自分が偉くても、

人ひとりが偉いくらいは知れたものだ。

どうしても、諮問しなければいけない。

広く立派な人に諮り、問い、教えを受けなければならない。

「嫌(けん:きらう)

吝(りん:金銭などを出し惜しみするさま。けち。しみったれ)

を除かしむれば」

嫌は「きらう」、

吝は「しぶる」ケチという字である。

嫌吝(けんりん)、これは案外人間にあるものだ。

あれも気に喰わん、これも嫌いだ。

あれも金がかかる、

これも駄目だ、

というように

人間は案外我がままで、ケチ臭いところがあるものだ。

昔から

「一文惜しみの百知らず」というが、

相当の地位にいたり、財産を成しているような人でも、

なかなか

好き嫌いが多くて、

ケチな人が多い。

そんなのは

嫌吝(けんりん)という。

 <鬼権の哲学>

 人間の心がけというものは面白いもので、

志ひとつでこういうものはどうにでもなる。

極端な例をいうと、

関西に木村権右衛門という有名な高利貸しがいた。

明治時代人らしく、少しは心がけがよい。

誰も木村権右衛門と言わないで

「鬼権、鬼権」と言った。

 この男は実に嫌吝(けんりん)で、

朝起きると、

高利貸しで成功するだけあって、

朝起きだけは確かにやる。

裏へ出てゴミ箱をあける。

それへ妻君だかお手伝いさんだかが

沢庵の切れ端を捨ててあったのをつまみあげてきて

「もったいない。誰だ、こんなことをするのは!」と言って、

それを洗って食ったという。

実に嫌吝(けんりん)だ。

したがって

借金をした人には取り立てること

実に厳酷苛烈である。

ところが

どうしたことか、

この男の倅(せがれ)が無駄遣いをし、

<だだら遊び>をしてしょうがない。

ところが

この鬼権、

倅には何も言わない。

それで

不思議に思った親戚の者が

鬼権の機嫌のよい時に、

「貴方が爪に火を灯すようにしてつくった大事なお金を、

湯水のようにあの息子は使うが、

それで貴方は惜しくはないのか」

と聞いたら、

鬼権は、むっつりして黙っていたそうだが、

そのうちに

ポツリと、

「あれはなあ、可哀想な奴じゃ。

わしが散々楽しんだ滓(かす)を使っとる」

こう言ったという。

やっぱり

鬼権にも哲学があるのです。

本当なら嫌吝(けんりん)な男だから、

倅がそんな湯水のようにお金を使ったら

耐えられるものではないのである。

つまり

無思想・無哲学では人間は生きられない。

ところが

彼は

苦しまぎれに、

そういう哲学を案出したんだね。

そう思って、そう信じて自ら慰めているんだね。

これもやはり哲学だ。

人間には哲学がなければならない。

信念がなければならない。

そうすれば嫌吝(けんりん)も救われる。

とにかく

嫌吝(けんりん)はいけない。

鬼権は鬼権の哲学で嫌吝(けんりん)を除いた。

それならいい。

「何ぞ美趣を損ぜん」

鬼権のようなものでもそこに美趣を生ずる。

「何ぞ済(な)らざるを患えん」

そうすれば必ず成功する。

「若(も)し志、強毅ならず」

理想精神がしっかりしていない。

そういうもの、

嫌吝(けんりん)などに安んじない、

毅然として抵抗力を発揮するのが抗慨(こうがい)である。

「意、抗慨(こうがい)ならず、

徒(いたずら)に

碌々(ろくろく:平凡で役に立たないさま。

たいした事もできないさま)として俗に滞(とどこお)り、

黙々として情に束(たば)ねられなば、

永く

凡庸に竄(ざん:かくれる、のがれる)伏して

下流を免れざらん」

いつまでも下流、

この頃の汚染された溝川みたいなもんだ。

いい手紙ですね。

こういう手紙をくれる親やら叔父さんやら友だちがおったら、

実にありがたいことだ。

というよりは、

自分がこれくらいの手紙を子供や甥に

やれるようにならなければならない。

 <師友を持つ意味>

 ところが、こういう志を立て、理想精神を養い、

信ずるところに従って生きようとしても、

なかなか人は理解してくれないし、

いわゆる下流だの凡庸だのという連中は

往々にして反感を持ったり、軽蔑したりする。

そういう環境の抵抗に対して、

人間が出来ていないと、

情けないほど自主性・自立性がなくなって、

外の力に支配される。

けれども、

本当に学び、自ら修めれば、

そして

自らに反(かえ)って

立つところ、

養うところがあると、

初めて

それを克服していくことができる。

その意味においては「人の知己」となる。

自らが修めると同時に、

その体験をもって同志の理解者となる。

これを知己という。

己を知る者は、まず己でなければならない。

これは当たり前だが、

同時に

「人の己」を知ってやる。

本当の理解者になってやるということは、

これは当然のことであって、

実に尊いことである。

人間は絶えず

自らが自らに反(かえ)って、

自らが自らを知らねばならないが、

しかし

人が自分を知ってくれるということは、

自らが自らを知ることで、

世の難しさを知るだけに、

これは非常にありがたいことである。

だから

名高い古来の格言に、

「士は己を知る者の為に死す。

女は己を愛する者の為に容(かたち)づくる」

という。

士は己を知る者の為に死す。

それくらいこれは感激のあるものである。

なかなか世人は自分を知ってくれない。

知ってくれないだけならいいけれども、誤解する。

「せめて誤解するくらい理解してくれれば」という

有名な言葉があるが、

「誤解」はするけれども、なかなか「理解」はしない。

いわんや

深く心に立ち入って、

その人のその人たる本質、

その人の理想・情熱といったようなものを知ってくれる人は

いないですね。

これは非常に有り難い、尊い。

人ばかりではない、

書物でもそうである。

本当に自分の魂に響くような文章とか学問は、

やはり

少ない。

割合に文芸や詩歌にはある。

詩歌というものは、

そういう意味でも

我々の心情を潤してくれる。

しかし

なかなか

救われませんね。

救われようと思えば、やはり単なる文芸ではいけない。

やはり

道徳でなければいけない。

徳芸・道芸でなければならない。

その知己の難きところに、

知己たる人の、

人の知己たる尊さがある。

そこに友の道・師の道というものがある。

人の師たり、人の友たることは、

即ち

人を知ってやることである。

我々は師友を持つことによって自らを知ってもらう。

自らを知ってもらうことによって、

自ら知ることができるという

非常に深い、尊い意味がある。

−−−引用はここまでです−−−

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

 ある中小企業の社長の説によると、

「社員には最低でも四百回は繰り返し繰り返し言わなければ

真意は伝わらない」

という。

そうなると、

私の場合は

安岡先生の講義録を、何千回、何万回書いたとしても、

まったくその真意は伝わらないのだと思うようになりました。

なぜならば、

恐らく

読者の皆さんは、

ここにご紹介したお話しを、

一筆一筆、

自分の手を汚して、

手書きの文字で、

紙に書き出す作業をするような人は

皆無であろうと思うからです。

しかも、

その作業は、

ほんの入り口に立つための準備段階でしかなくて、

本当の学びを得るためのプロセスに至るには、

道のりははるかに遠く、

その

一文字一文字に対するイメージを、

思いっきり膨らませるなどの、

気が遠くなるような時間と

ハードな精神的訓練に

耐え続けなければならないからです。

普通の人は、

それが必要だと分かっただけで、

怖気(おじけ)づいて、

逃げ出してしまいます。

ガッツや根性は大前提なのに、それすらもない。

だから、

どんなに貴重な言葉が次から次へと現れても、

自分が消化不良になることから逃げるために、

いきなり、

記憶の外へ追い出すのです。

だからこそ、

単なる普通の凡人に成り下がっているわけですが、

そういって

ボロクソに言われても、

悔しいという感情も湧いてこないほど、

何も感じないのですから、

認知症患者と同じで、

パーソナル・コーチングの対象にはなりません。

むしろ、

ご近所の精神科の医者にでも診(み)てもらうといい。

お達者で。



0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを投稿する

<2019年11月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930