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2019年11月10日04:19

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【そもそも人間学とは何か】 東洋哲学の精粋

知古嶋芳琉です。

 安岡先生が語られる人間学とは、

もっぱら東洋哲学によるところが大きく、

西洋の哲学に比べますと、

かなりアプローチの仕方が異なります。

それは、もっぱら中国の古典から引用して、

その真髄(しんずい:そのものの本質。その道の奥義)と申し

ますか、

ここでは精粋(せいすい:選び抜かれたすぐれたもの)という

言葉が選ばれています。

普通よく使われる精髄(せいずい:物事の本質をなす最も

重要な部分)とは異なって、

根本的なことであることは既に当たり前のことで、さらに

もう一歩踏み込んで、あえて万巻の書の中から、選びに選び

抜いた最も優れたものなんだという、学者としての意気込み

と申しますか、姿勢を明らかにした言葉を選んでタイトルとさ

れているところなどは、まさに脱帽せざるを得ません。

その語彙の豊かさにはとてもついていけません。中国の古典

と申しますと、まずは四書五経が挙げられますが、先生が

引用される文献は東洋のものだけに留まらず、西欧の文献

からも、豊富な引用をもって語られます。ですから、必ずしも

東洋独自のものだけではなくて、西洋の考え方や、教訓など

も含まれていまして、学問に対する姿勢は、

融通無碍(ゆうずうむげ)そのものです。

 ここからは安岡正篤師の講演録、

『知命と立命』(プレジデント社)からの引用です。

−−−ここからが引用です−−−

■ 東洋哲学の精粋

○ 「真の自己」の発見

 <「素行」の意味>

『中庸』より

−−−原文の日本語訳−−−

君子はその位に素して行ない、その外を願わず、

富貴に素しては富貴に行ない、貧賤に素しては貧賤に行なう。

夷狄に素しては夷狄に行ない、艱難に素しては艱難に行なう。

君子入るとして自得せざるなし。

−−−以下は解説です−−−

これは有名な「素行自得」という熟語の典拠で、『中庸』の

中の最も有名な一章です。この中で一番大事なのは「素」と

いう言葉と、「自得」という言葉である。これが眼目である。

君子、つまり立派な指導者はその位に素して行なう。自分の

立つ場、自分の存在する場に素して行なう。素は普通「もと」

と読む。元来この文字の始まりは絵を描く白い絹、

素絹(しろぎぬ)のことです。この素絹(しろぎぬ)がなければ

表現のしようがない。つまり絵画という芸術を表現する

生地(きじ)である。それから素地という意味になる。

したがって素質、本質という意味になる。いろいろな表現技術、

あるいは着色などは、みな素絹(しろぎぬ)の上にやるわけで

ある。 そこで『論語』に「絵の事は素より後にす」という名高

い言葉がある。ここから「後素」という語をとって大塩平八郎

が自分の号にしている。大塩平八郎はもと中軒といったが、

後に中斎に改めた。これでわかるように、中庸を旨とした人

である。この人が一つは性格、一つは時勢に迫られてああい

う幕末の反乱を起こしたのであるが、彼としては心ならざる

ところであった。それは別問題として、大塩平八郎が後素と

称したのはここから取ったのです。一部の学者はこれを

「素を後にす」と読んでいる。これは絵を描いていて、いろ

いろ色彩を施して最後の仕上げに白色を使うこと。これに

対して、朱子は「素より後にす」とする。素は素絹(しろぎぬ)

のことで、着色即ち文化というものはその後で施すもの、

素質が大事だと解している。私はこのほうがいいと考える。 

人を指導する立場にある人、いやしくもエリートたる者は

「その位に素して行なう」、自分の立場に基づいて行なう。

自分の立場から遊離しないで行なうものである。現実から

遊離するのが一番いけない。 ところが人間というものは

とかく自分というものを忘れて人を羨んでみたり、

足下(あしもと)を見失って、ほかに心を奪われる。職業人と

してもそうである。自分の職業に徹するということは案外少な

いものである。たいていは自分の職業に不満や不安をもって

他がよく見える。「学校の先生くらいつまらないものはない、

それに比べると会社員はいい」とか、「役人は結構だ」とか

他を羨む。いま医者と厚生省が喧嘩しているが、医者は医者

で、真の医という仕事に素しておる人、それにしっかり立って

おる人は案外少ない。とにかく、いま日本で社会的に困る

ことは、多くの指導者がその場を遊離して騒ぐことである。

たとえば学生が自分の学業を放擲(ほうてき)して、むやみに

大衆運動に飛び込んでいく。教員が大事な教壇を放擲して

革命だ、反政府だ、なんとか闘争だといって騒ぐ。

 <現実遊離の考え方>

 およそ日本の指導者を以って任ずる人たちに反素的傾向、

つまり自分の場を遊離する傾向が非常に強い。これは根本

的に考えると、日本の恵まれた歴史や、地政学的な位置に

その原因がある。日本の国家生活、つまり日本の国民と

国家という立場から歴史を見るときに、世界に珍しいことだ

が、日本はかつて異民族から征服侵略されたことがない。

元寇のとき、少々海岸を脅かされたくらいのことで、国土を

挙げて敵と屍山血河の大決戦をしたとか、数十年、数百年、

敵の征服下にあらゆる虐政を経験したとか、侵略軍に抵抗

して革命を起こしたなどという経験はない。このあいだ、初め

て戦(いくさ)に負けて米軍の進駐管理を受けたけれども、

国民として現実生活に苦しまなかった。むしろ物質的には

恵まれた。だから、たくさんの人間が進駐軍、進駐軍と

阿諛(あゆ)迎合した。ドイツやイタリアは同じ敗者の立場に

あったけれども、これは本土に敵を受けて、国を挙げて戦い、

敵の蹂躙を被った。日本はそういうことはない。こういう国は

内乱があるはずなのですが、国を挙げて内乱に苦しんだと

いう歴史も、幕府三百年以来ない。

 幕末維新に一部の指導階級が多少騒いだけれども、それ

とて高度に発達していた各藩の藩政のおかげで、国民大衆

としては、政友会が憲政会に変わるとかいうのと大して変わ

らない。だから、明治維新のような変革は、実は大革命で

あって、よその国ならば血で血を洗う大惨劇を演ずるところ

だが、三百年も覇権を握っていた徳川氏が政権を奉還した

だけで、いわゆる平和革命をやった。

 三百年も領土・人民を私有していた各大名から、その土地

・人民の所有権・支配権を取り上げるということは外国ならば

大革命で、惨憺たる粛清をやらなければならない。ところが

日本は、版籍(土地(版)と人民(籍))奉還といって、

薩長土肥をはじめとして、各大名が自主的に民主的精神と

方法によって国家へ返還した。

 こういうことは外国に例がないことです。

そういうことはマルクス・レーニン主義者などは

一番感心しなければならないのに、

この連中はそういうことはさっぱり考えない。

 天皇、皇室をむやみに謗(そし)り、西洋歴史と同じ範疇で、

感情で考えるのは大きな間違いである。

 これは日本の非常に恵まれた歴史的な事実であるけれ

ども、このために日本の国民一般は良家の子女と同じで、

世の中の苦労をした子供たちと違って、家庭のありがたみ、

父母の恩ということが分からない。

人に向かってはよく家を自慢する。

親の光りで生きているくせに、

家だの親だのをありがたくは思わないで、

むしろ不平ばかりを言う。

またそういう心理に迎合して、いわゆる、

ひ辞・淫辞・邪辞を述べ立てる煽動屋が、

「家庭は牢獄である」というような悪知恵をつける。

そういう評論や小説を読むと、そんなことばかり興味を持つ。

親父やお袋はいつも目を光らせていて自由を束縛する。

だいたい親父は頑固でものが分からない。

お袋はケチで小遣いをくれない。

そういうことばかり書き立てるものだから、

むやみに隣の家がよく見える。

隣の家は幸福で理解があって、

仲良く豊かにやっておるように思う。

これは良家の子弟によくある妙な一種の心理である。

 そういう心理が国家的にもあって、

甘やかされた日本の思想家とか評論家とか

社会運動家という輩は、日本国家のことになると、

なんでもケチを付けたい。

そして、よその国はばかに良く見える。

昔はアメリカ崇拝、イギリス崇拝、

第一次大戦後ムッソリーニが奮起し、

ヒトラーが大いに威権を振るうに及んで、

猫も杓子もムッソリーニ礼讃、ヒトラー崇拝になった。

そのうちに、これが没落するとまた英米崇拝、進駐軍崇拝、

スターリンが時めいてくるとスターリン崇拝、

そのスターリンが打倒されると、今度は毛沢東、周恩来、

なんでもよその国を崇拝する。

ソ連や中共のやっておることはみな良い。

 日本でやっておることはみな悪い。

 それは金持ちのどら息子やどら娘と同じ心理である。

これもつまり現実を遊離した「位に素さぬ」考え方である。

 <富貴に素しては>

「富貴に素しては富貴に行なう」、

自分が富み、あるいは高い地位に就くことがあれば、

その位に素し、現実に立脚して、

その地位の意義・使命を十分発揮する。

富めば、その富というものの意味、その力を十分活用する。

 その反対に、

「貧賤に素しては貧賤に行なう」。

人間はあらゆるものに意味がある。富貴には富貴の意味・

効用がある。一利あれば一害ありで、その反対に貧賤は

貧賤でまたその意味効用があって、

悪いことばかりではない。

少なくとも貧乏したり、下積みになって苦労をすれば、

本当の人間味、

人生、社会の真実のある面を知ることもできる。

貧賤は貧賤で、

富貴では得られない意義もあるし快楽もある。

 大金を持ったことのない者は金というものを羨むけれども、

羨むに足る金持ちなんて、そうあるものではない。

昔のように、甕に金を詰めて埋めておくという時代ではない。

今は現金を持っていたら、これくらい危ないことはない。

タンス預金は火事でもあれば焼けてしまうから、

いつもびくびくしていなければならない。

火事ばかりではない。泥棒という奴もいる。

そこで株券に頼る。そうすると株は上がり下がりするから、

それが苦になって四六時中、上がった、下がったと、

そんなことばかり心配になる。

自分に縁もゆかりもない株を持っているというだけで、

その会社のことを始終気にかけなければならない。

大の男がそんなことに気を取られていて人

間が進歩するだろうか。そんなことでは、人間が金を持って

いるのではなくて、金が人間を持っていることになる。こんな

苦労は貧乏人はせずに済む。あるいはインチキなブローカー

みたいな人が来て、お為ごかしにペテンにかけるやら、

付きまとうやら、さぞうるさかろうと思う。

そういうものを何も持たないのは実にさばさばして気持ちが

よかろう。これはいわゆる貧賤の楽しみというものである。

それを負け惜しみという人がいるが、負け惜しみなどと考え

ている間はまだだめである。

本当に徹底した人は、実にさばさばしたものである。

 <貧の哲学>

 貧賤に関する古人の文献を集めて、

「貧の哲学」、「貧の文学」という本を書いたら

さぞかしおもしろかろうと思う。

暇があったらやってみたいことの一つであるが、

痛快な文献がたくさんあります。

昔から思い切って金を儲けたり、あるいは位は人間として

極致に至った人がそのすべてを捨てて、お釈迦さまが

その模範だが、山に入った。

あるいは、もう人間の顔を見るのもいやだといって行方をくら

ました人やら、少なくとも山野に隠棲して自然と読書を楽しん

で悠々として終わったという人がたくさんいる。ああいうふう

になったら実に尊いものだと思う。鎌倉に誠長寺を開いた

非常な名僧がおりました。たいへんな金持ちの信者が、

今でいうなら何億円というお金を寄付した。すると和尚は、

「ああそうかね」と言ったきりで礼も言わない。そこでさすがの

信者も腹に据えかねて、「老師、このお金はたいへんなもの

ですが、お礼のひと言くらいおっしゃったらどうですか」と言っ

たら、和尚は目をむいて、「なにを言うか。お前さんがいいこ

とをするのに、なんでわしが礼を言うか」と言ったという話が

あるが、考えればそのとおりだ。

そういうふうになると人間はおもしろいね。

 富貴だの貧賤だのというものは、

突き詰めれば同じものである。

同じものでなければ本当の富貴や貧賤ではない。

 <夷狄に素しては>

 「夷狄(中国周辺の異民族の蔑称。野蛮人)に素しては

夷狄に行ない」

本当に自己が充実してきたら、

どこの国へ行っても、どんな境地に処しても

悠然としておることができるわけです。

自分という人間が出来ていないと、

少しでも居場所が変わると、じきに神経衰弱になる。

いわんや文明生活から少し野蛮生活に入ると、

すぐ参ってしまう。 私は戦争直前にヨーロッパに行った。

今のように飛行機がないものだから船で行った。

神戸を出てから地中海に入って、私はナポリに上陸したの

だが、そこまで行くのに約一か月かかる。

インド洋だけでも一週間くらいかかる。

明けても暮れても漠々たる雲と波ばかりである。

まずシナ海に入ると、ぼつぼつ神経衰弱になる人がいる。

インド洋あたりへいくと飛び込みかねまじき者が必ず二人か

三人はいる。ヨーロッパやアメリカ人と違って、日本人は

情けないことに、ノイローゼにかかる者がずいぶんいる。

これは「自ら養うところがない」ものだから

環境に負けるんだね。

 いかなる所へ行っても、牢獄へ入れられても、

島流しにあっても、悠然として

ふだんと変わらないようになるのには、

よほど自分を作らなければならない。

そういう意味では、不遇・逆境というものは

自己を練る最もいい場所である。

心がけがよければ牢獄の中でもずいぶん学問もできる。

大学へ三年も六年も通って外国語を勉強しても、

手紙の一本もろくに書けないのが大半である。

 けれども半年も牢屋におれば、英語の本を読んだり、

手紙を書いたりすることはわけはない。

仕方がなく、それ専門に打ち込むからである。

 <患難(かんなん)に素しては>

 「艱難に素しては艱難に行なう」

病気をすると辛いことは辛い。

 しかし、またその病気の中に無限の意味もあり、

効用もある。快楽もある。私は十数年前にある薬を医者に

飲まされて、それが私の身体に合わないで、全身に発疹が

発したことがある。ことに首から上がくずれたようになって、

閉口した。医者は入院せよと言ったり、何を食べてはいけ

ない、酒を飲むなと言う。 その頃、たまたま

私は

進駐軍と

農士学校のことで

大ゲンカの最中であった。

進駐軍は私の金鶏学院

(注:昭和2年に著者が設立)を没収し、

私を追放するという。

それはご勝手だけれども、

進駐軍は農士学校をも没収して、

そこへファーザー・フラナガンで有名な

「少年の町」という、不良少年を教育する町を造るという。

それで私は憤慨して

マッカーサーに手紙を突きつけたり、

大ゲンカしたことがある。

そういう時に入院したり、

飲まず喰わずでいたのでは何もできない。

そこで医者に、「そういうのを凡医というので、

ふだんのとおりに治さなければなんにもならない。

おれが治してみせるから心配するな」と言ったら

医者はたまげていた。

私は酒を飲み、うなぎや天ぷらを食い、

体力をつけるほうをどんどんやる。

その代わり病気のほうもどんどん激しくなる。

要するにプラス・マイナスでプラスになればいいんだから、

ちょっと暇がかかったけれども、一日も入院せず、

一日も飲食を絶たずに、むしろ逆療法をやって、

一か月ほどでみごとに克服したことがある。

 そのときに病気もいいもんだと思ったことがある。

それは温泉の湯の花薬湯を作り、その中に入ると、

その湯が痒い所へキューッとしみる。

これを痛快とはよく言ったものである。

その痛さの快感たるや言うべからずである。

人生無上の楽しみだと思った。

何でも意義と快楽がある。

 <自得>

 「君子入るとして自得せざるなし」

自得ということは自ら得る。

自分で自分をつかむことである。

人間は自得から出発しなければならない。

金が欲しいとか、

地位が欲しいとか、そういうのはおよそ枝葉末節である。

根本的・本質的にいえば、

人間はまず自己を得なければいけない。

本当の自分というものをつかまなければならない。

ところが

人間はいろいろなものを失うが、

一番失いやすいのは自己である。

人は根本において自分をつかんでいない。

空虚である。

そこからあらゆる間違いが起こる。

人間はまず根本的に自ら自己を徹見する、把握する。

これがあらゆる哲学、宗教、道徳の根本問題である。

 楠木正成(くすのきまさしげ)が若かりし日に

奈良の片ほとりを歩いていた。

たまたま一人の僧侶と行き会った。

お互いに名を名乗り合って、四方山の話をしながら

しばらく道連れになって行くと、

ふと僧が「楠木左衛門尉(じょう)正成(まさしげ)」と呼んだ。

「はい」と返辞をしたら

「それは何だ」と聞かれて正成はギャフンとなった。

それから正成は学問をしたという逸話がある。

嘘か本当か知らない。

少しうまく出来すぎているが、これは痛い話である。

また非常に有益な話である。

 <独立独歩>

 諸君もそうだ。

みなそれぞれ名前を持っているが、

考えてみたら、かけがえのない、

天地万物の中に唯一無二である。

その「独」というものは

人の世から離れた、

さびしい隠者の一人という意味ではなくて、

「絶対」という意味である。

「独立」というものは

何ら他に依存せず、

自分自身が絶対的に立つということである。

「独歩」ということは群集と一緒に歩くという意味ではない。

自分が絶対的に自立自行することである。

人のやっかいにならない。

自分自身が絶対。

つまり

相対を絶することである。

自主自立して歩くことが独歩である。

そういう意味の独自。

絶対的な自己をどれだけ自分が本当に知っているか。

これを仏教では

「見性(けんしょう)」という。

『論語』ではこれを「修己」、己(おのれ)を治(おさ)む。

あるいは「知命」、命を知るという。

これが自得である。

「君子入るとして自得せざるなし」。

−−−引用はここまでです−−−

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

ここは

なにしろ

哲学でも

基本の中の基本ですから、

何度でも読み直して、

骨の髄までしみわたらせておくべき内容です。

私がもっぱら採用している「コーチング」にも

基本哲学というものがありまして、

その目的は、自分のことは自分で考えて、

自分で行動することができる、

真の意味での自立(自律)した人を育てることにあります。

人から

何か

命令されたり、

言われなければ考えないとか、

行動できないようでは、

とても

一人の社会人とか

自立した人とは言えないからです。

「ファシリテーション」をやる上では、

論理的な思考(ロジカル・シンキング)に徹することが、

最も大切な基本哲学であることが分かってきました。

ところが、

人間は感情の動物と言われるだけに、

安岡先生も

人間の情理を最も大切にされる方でした。

なぜならば、

論理が最も危ういとして、

厳しく論理的思考を警戒されてきたからです。

では、

「論理」も大事なら

「情理」も大事という、

この矛盾を解決するために、

私たちはどうすれば良いのかということになりますが、

これも

安岡先生が言われたように、

「現実から遊離」しないことに限ります。

感情に振り回されたものの見方や考え方を避けて、

冷徹・冷静な観察眼を持たなければなりませんし、

基本の中の基本である

思考三原則を忘れてはなりません。

何事も

基本をないがしろにしては

道を誤ります。


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