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2019年10月22日04:08

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【そもそも人間学とは何か】 東洋思想の基本

知古嶋芳琉です。

東洋思想には、

たった一つの文字にも、

いくつもの意味を含ませるという、

いわゆる

含蓄させることがありまして、

これには非常に奥深い意味が込められています。

そういう奥深い意味が込められていることも、

教えてくれる人がいないと、

なかなか

自分だけでは学びを深めることはできません。

その一つの例をあげますと、

道徳とか宗教に関する

東洋と西洋の捉え方の違いがあります。

これは

いわゆる哲学の分野のことになるので

根本的な問題を考える場合の基本になります。

その基本的な考え方を進めて行く場合、

使われる言葉の概念が分からないと、

考え方も分かりません。

単語の意味が分からなければ

文章の意味が分からないのと同じことです。

もっとも基本となる

単語の意味を分かりやすく説明したものは

なかなか見つからないものですが、

PHP文庫の現代活学講話選集の中に

『十八史略』

という中国の歴史の本があります。

これを読むにあたって、

安岡正篤師が、

東洋思想の基本概念を解説した部分がありますので、

ここから引用してご紹介いたします。

これは、

歴史の本を読む場合に限らず、

東洋思想を学ぶ場合の

全般にわたって理解しておくべき基本なので、

極めて大切なことです。

特に「道」「徳」「功」「力」を縦軸に配置して、

それぞれの要素が

どう関係していくかを横軸に展開して

一覧表にしたところなどは、見事なもので、

視覚的に関係性がよくわかりますので、

常に手元において

参照しながら、

読書するなり思索を巡らせることが肝腎です。

これができないと、

東洋思想のどんな文章も、

その奥深い真意、

あるいは

原理原則を汲みとることはできません。

−−−ここからはその解説の引用です−−−

『十八史略』を読む上での予備知識として、

まず

必要な基本概念について、

簡単な解説をしておきたい。

先ず第一に、

東洋の道徳は西洋の道徳宗教と面目が違う。

特に

“東洋の道徳”という概念について

時々苦になるのですが、

よくこういうことをいう人がある。

相当の知識人、いわゆる教養人を以って任ずる人が、

道徳はもとより結構だが、

結局は

やはり

宗教でないとだめだ、

道徳だけではいかんとよくいわれる。

これは

近代西洋哲学や、

社会科学の概念の浅解でありまして、

全然

東洋の道徳というものを了解しないものであります。

東洋人の道徳という言葉は、

西洋の通俗的概念とは全然違い、

もっと

根本的・普遍的なものであります。

そういう意味では、

人間の存在

および

生活活動に

四つの

根本範疇(はんちゅう:哲学で、

あらゆる事象をそれ以上に分類できないところで包括する

一般的な基本概念)があります。

.▲螢好肇謄譽垢両豺腓如

あらゆる存在者がその下に包摂される最高類概念。

実体・量・質・関係・場所・時間・位置・状態・能動・

受動の10項目。

▲ントの場合で、

純粋理性概念(理念)から区別された純粋悟性概念。

思惟能力としての悟性の先天的形式で、

これによって悟性は対象を認識へと構成する。

量(単一性、数多性、総体性)、

質(実在性、否定性、制限性)、

関係(付属性‐自存性、原因性‐依存性、相互性)、

様相(可能性‐不可能性、現存在‐非存在、必然性‐偶然性)

の4項12目)があります。

それを東洋思想では、「道」「徳」「功」「力」といいます。

  道−−化−−自然−−聖−−皇 \
  徳−−教−−譲−−−賢−−帝   > 王
  功−−勧−−政−−−才−−王 /
  力−−率−−争−−−術−−伯(=覇)

道というのは、

これあるによって宇宙・人生が存在しておるものであって、

これがなければ宇宙・人生は成り立たないという

宇宙・人生の本質的なものをいう。

その道が人間に現われて徳というものになる。

したがって

徳というものは、これあるによって人間である。

これがなければ

形は人であっても人でないという

人間存在の本質的・根本的なものをいう。

徳はすなわち道から出たわけです。

この頃、そういうことをはっきり認識し、

これを提唱して世界の識者に反響を呼んだ

最も有名な一人がタイヤール・ド・シャルダンです。

この人は

アインシュタインを円の半円としますと、

それに応ずる別の半円であるといわれる。

丁度

アインシュタインとシャルダンとを合わせると

全円、全き円になるといわれておる人であります。

この人は

なぜ自然科学の権威であったアインシュタインの

反対の半円といわれるのかといいますと

西洋ではご承知のように、

自然と人間を対立的・相対的に考えがちで、

そして

その果ては

人間が自然を出でて、

自然を征服したいというように、

まるで

人間が

自然の征服者であるという風に理解する。

山に登っても、

ヒマラヤを征服したとか

アルプスを征服したとかいう。

ところが、

シャルダンの意見はそうではない。

自然が何万年、何億年かかって、

次第に無機物から有機物を生み出し、

有機物から生命へ発展して

そこから

動物の世界、

それも

やがて

脊椎動物から哺乳類、高等猿類になって、

最後の、最後ではないかも知れん、

まだこれからも無限でありますが、

何億年、

あるいは

何十億年前に

心というものを創造し、

この

心が

人間に至って

非常に発達してきて、

道徳とか信仰とか芸術とか

いろいろな

貴いものを生むようになってきた。

従って

人間生活、

人間の形・精神・霊魂というものは、

自然のアトム(原子)から一貫して発達してきたものだ。

決して

別個のものではないということを、

科学者として

明確に説いた人であります。

こうした考え方は

東洋では基本的なものであります。

シャルダンなどを俟(ま)つまでもなく、

思想学問の始まりから、

すでに

東洋では

そのように考えてきたのであります。

終戦の詔勅の

「万世のために太平を開く」

という言葉がありますが、

これは

宗(そう)の碩学(せきがく)・張載の名言で、

その最初の言葉は

「天地のために心を立つ」

という句であります。

これは

「天地、心を立つと為(な)す」

と読んでも良いのでありまして、

明らかに

天地から人間の心が開けてきたことを、

はっきりと言っておる。

つまり、

道というものは造化である。

創造進化の働きである。

その道が人間を通じて徳というものになっていった。

だから、

これあるによって人間である。

これがなければ人間ではないという、

本質的なものが徳というものでありまして、

それに対して、

才能・技能・智能というようなものは、

大事なものですけれども、

これは

附属的要素でありまして、

人間であれば

多少の智能や才能・技能は皆持っておる。

しかし

多少

これに乏しくたって、

人間たることに差し支えない。

場合によっては、

むしろ

ない方が、より多く人間であり得ることさえある。

ところが

徳がないというと、

これはもう全然人間ではない。

たとえば

明るいとか、

清潔であるとか、

あるいは

愛するとか、

扶(たす)けるとか、

報いるとか、

努めるとか、

こういう心がなければ、

それは

人間ではないわけでありまして、

宇宙の道に対していうならば、人間は徳であります。

この人間を通じて発達してきた徳というものが

今度は

人間の社会生活に発達してくるに及んで、

政治とか経済とか教育とか、いろいろの仕事になる。

これが「功」であります。

これは

人間を動かす「力」である。

だから

自然と

人間と、

特に

人間の世界というものは、

道・徳・功・力という、

この四つの範疇に納めることができるわけです。

しからば、

道というものの作用は

どういう言葉で表わすのが一番良いかというと、

「化する」

ということ、

道化、

あるいは

創るというてもよろしい。

いわゆる

クリエイトであります。

それで

造化という言葉ができておるわけであります。

そのお陰で

不思議な世界、

無機物・有機物から

生命、精神、いろいろの千変万化が

行なわれてきたわけでありまして、

その

「化する」という

道の作用の特徴は何か、

どういう姿で現われるかというと、

自然という姿で現われる。

道は化する。

その

化の行なわれるや

自然である。

これに対して

徳というものは

どういう作用を成すかというと、教える。

「教」という字は、

効能書きの「効」という字と同じことでありまして、

手本になるという意味で、

従って

人が

これに学ぶ、

則(のっと)る、

手本にするという意味を持っております。

教あるいは効という音ですが、

だから

教ということは、

教師が

人の子の手本となって、

人の子が

それに則(のっと)る、学ぶ。

学ぶは「まねぶ」であります。

そういう風になってゆく。

その姿は非常に謙譲である。

これが徳の特徴であります。

それによって

人間生活のいろいろの働きが行われて、

それは

人間生活を

いろいろの形で、

いわゆる

プロモートしてゆく。

これが勧であります。

あるいは

利してゆく。

「利」という字は

「するどい」、

あるいは

「きく」。

そういう働きは人間を動かす力である。

これが人間を率いてゆく、

率というと、

そこに争うとか

いろいろできてくるわけですが、

場合によっては

乱れることもできてくる。

これに対して

人間精神・人間生活を進めてゆくと

人間が治まる。

これが政治というものの、

治政とか政治というものの

本来の意味であります。

教が行なわれ、

お手本・模範になる、

人がそれに学ぶとなれば、

その姿は謙譲という姿になる。

天地の造化の働きは、

すなわち

自ら自然である。

こういう道は化し、化は自然である。

徳は教、あるいはならう、

そして

謙であり譲である。

功は人間生活をプロモートする、

進めてゆく、

そして

人間生活・社会生活が治まる。

正しくなってゆく。

それは

人間を率いる力であるが、

力だけになると、

どうしても

動あれば反動があって、

争い乱れることになる。

道を以って化す、

天下を自然に化してゆくような支配者が現われたら、

これを皇という。

徳を以って人を教え、

人のお手本になって人間を謙譲に導く者があれば、

これを帝という。

いろいろの仕事をして人間生活を開発し、

進歩させて、

人間社会を

よく秩序を保って治めてゆく者を王という。

力で引っ張ってゆく。

従って

どうしても争乱を免れんというのは覇者、

覇道という。

皇道・帝道・王道合わせて、大きく王で一括いたしまして、

皇・帝・王・覇では煩わしい、

複雑であるから、

これを王覇という二元に帰する。

これが

東洋の王道・覇道の由って来たる所以(ゆえん)であります。

まず

これだけのことを心得ておきませんと、

『十八史略』

に入りますと、

よく皇、帝、王、覇という言葉が出て参ります。

特に

王覇の論というのは

東洋政治を考える上における

根本的な思想概念で、

先ず

これだけ理解しておきますと、

「道徳ではだめだ、宗教でなければいかん」

というような

一知半解の議論に

惑うことはないわけであります。

そこで

宗教と道徳の関係を少し解説いたします。

そもそも

自然から人間が出てきた。

いわゆる

創造・造化された。

その人間は、

物質界・植物界・動物界の最後の段階に現われた

高等な存在である。

人間と動物とを区別する

ぎりぎりの決着のボーダーラインは何かと申しますと、

先哲の解明によれば、

「敬する」という心です。

「愛する」ということをよくいう。

愛が根本であるとか、

愛が本義であるとかいいますが、

愛はどの程度かにおいて

動物も

みな持っておる。

もっと原始的にいうと、

植物でさえ、

たとえば

日に向かう、

太陽の方に向くということは、

これは造化の自然の働きであります。

それと相通ずるもので、

愛というものは

基本的なものであるには相違ないが、

これは

どの程度かにおいて

植物にも、特に動物にあるわけです。

愛もさらに突っ込んで深遠に解釈すれば別でありますが、

一般的には

愛というのは、

まだ

人の

人たる所以の

究極的なものとはいえない。

それでは

他にあるのかというと、

それが

いわゆる

敬、敬う、敬するということであります。

敬するという心は

つまり、

これからますます

人間の生というものが開けてゆく。

進歩向上してゆく、

その高きもの、

尊きもの、

大いなるものの感覚、知覚です。

そういうものを我々が悟るとき、

我々の心に

敬う、敬するという心が出てくる。

だから

人の人たる所以の

一番大事なものは

敬するということです。

敬するということがありますと、

これは

相待 (そうだい:仏語。二つのものが互いに相対関連して

存在すること。⇔絶待)的な、

相待(あいま)つ、

レシプロカル reciprocal なものですから、

必ず

今度は

内に省(かえり)みて

そこに

恥ずるという心が生ずる。

だから

敬する、敬う心と、恥ずる心とが、

人の人たる所以の

ぎりぎり決着の問題です。

だから

敬することを知らず、

恥ずることを知らない者は人間ではない。

敬、敬うことがわかりますと、

つまり、

より大いなるもの、

偉大なるもの、

尊いものに対する認識ですから、

そこで

人間は

そういうものを敬うと同時に、

我々の心は

自ら省みて

恥ずると、

その心は

「参る」という気持ちになる。

参るという言葉は

中国でも日本でも、

そもそもから会得し、

使っておる

大切な言葉であります。

我々は心から参らなければいけない。

よく大切なものに参る人でなければいけない。

その点、

日本は他民族にない道徳性を持っております。

日本人は参るということを始終使います。

「おれはあいつに参った」

ということは、

「あいつは偉い」

ということです。

大変好い言葉です。

男女関係でも、

西洋では

ラブとかリーベンといったような、

愛するという言葉がありますが

日本人は

男が女に対して参ったという。

これは実に立派な言葉です。

それは、

あれは偉い・貴いという

尊敬・讃嘆の言葉です。

日本人が

軽々しく言う

ラブとかリーベンとかいう言葉より

ずっと精神的内容のある、

人間味豊かな言葉であります。

ところが、

それよりも

もっと感心なのは、

勝負をして負けたときに

「参った」と言う。

これは

「貴様は偉い」と言う、

勝負をして負けて

相手を認識し、

相手を讃美する言葉で、

これは非常に優れた言葉です。

これは

前述のような

根元から出ている

貴い言葉です。

我々が敬い、

そして

参ると、

少しでもそれに近づこうとする。

参るから

「さむらう(「そうろう」にあたる。…でございます)」

「はべる(「はべ(侍)り」が

「侍(じ)す」の意に意識されて

意味の変化したもの。

身分の高い人のそばに付き従っている。

かしこまってその席などにいる)」

というような考え方になってゆく。

そういう

感激を以って結び合ったものが

「さむらい道」という。

侍(さむらい)は

「さむらい」「さむらう」「さぶらう」、

自分の敬するもの、

参ったものに近づいて、

それに仕えて共に生きようという、

非常に精神的・道徳的な言葉であり、

道徳的な精神であります。

そうすると

何も要らなくなる。

何でもすべて捧げたくなる。

これを「祭る」「まつらう」という。

「祭」という字がそうでありまして、

これは

左上の月は肉という字の略字です。

右の又は手です。

示は神でありまして、

神に大事な肉を捧げるという字で、

自分の敬慕するものに

自分の大事なものを捧げるのが祭る、祭ろう。

昔の日本人は



「たてまつる」とか

「候(そうろう)」とか、



そういう精神が

豊かだったことがわかる。

これは

非常に

人間味豊かな、

西洋流に言うと、

宗教味に溢れた言葉です。

こういう日本語の妙味を

ほとんど

今日の日本人が

よく解さなくなった。

問題は

その

敬すると

恥ずるとでありまして、

その

敬するという言葉が主体になりますと、

それは

宗教になる。

そういう心が発達してきますと、

次は

偉大なるもの、

敬するものに対して、

省みて

恥ずるという心が生じる。

恥を知る。

恥ずるから戒める。

慎む。

恐れる。

あるいは

已往(いおう:それより前。以前。往時)を考えて悔いる。

そういう一連の心理が発達してくる。

これが建て前になったものが道徳です。

強いて

西洋流に

分けて申しますならば、

宗教というのは

いわゆる

信仰でありまして、

より大なるもの、

尊いものに対して

没我的に打ち込んでゆく。

それが建て前になると宗教。

それによって自ら省み、

恥じ、

畏(おそ)れ、

慎み、

戒(いまし)めるということが

建て前になって

道徳が発達した。

だから

宗教といえば

道徳がその中にある。

道徳なき宗教はなく、宗教なき道徳はないのです。

宗教と道徳を

截然(せつぜん:物事の区別がはっきりしているさま)と

分けて、

道徳ではだめだ、

宗教でなければならんというのは、

一知半解、

半分わかったようで、

実は

わかっておらぬことです。

これは

無学の致すところであります。

だから

人間は

真に学問をすると、

だんだん怖くなりまして、

あまり

偉そうなことは言えなくなる。

自然と

謙譲になるわけです。

先ず、

根本的な

こういうことを

よく理解しておいていただきたい。

−−−引用はここまでです−−−

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

東洋思想というものは、

たとえ

読まれる時代や人物が異なっても、

積極的な参加を要請いたします。

つまり、

他人事で済ませるわけにはいかないのです。

自ら

積極的に参(さん)ずる、

あるいは

参(まい)ることを要請します。

もっと言い方を変えますと、

「知行合一」、

つまり、

知り得たことは

自得・体得・会得して、

実生活の中で

体現することを要請するのです。

単なる知識として

記憶しておけばいいということは許されません。

それほど現実的で、

非常に厳しい学問と申しますか、

実学といわれるわけです。

観念や論理の上だけでは事を済ませないという、

現実に立脚した学問と言っても良いでしょう。

それだけに、

いわゆる

東洋思想の真髄は、

一般の生活者の間、

つまり

一般の民間人の間で、

口から口へと伝承されて、

いつの間にか

生活の中に溶け込んでいる、

難しい専門用語も少なくありません。

また、

詳細にわたって解説した文献などによらないで、

口頭による伝承であっただけに、

本来の意義を失って、

誤って

使われる例も結構あるもので、

安岡正篤師は、

師の講演会では、

度々

分かりやすく

解説されたものでした。



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