マーティン・スコセッシの『アイリッシュマン』観る。ザ・ジョーカーのときにも言えたことであるが、凄まじいヴァイオレンスの向こう側に見えてくるものに注目したい。あるいは男のドラマとみなしてしまうこともできるかもしれないが、この男とはあまりにも愚かで、振り回されていることに気づかない。さて、この男なるものは、愚かであるがゆえに愛くるしいものではないだろうか。それは贔屓眼すぎるだろうか。そして残された時がわずかだとわかったときのみに、自分の愚かさを理解できるが、自分への憐憫さえ持ってしまうのではないだろうか。そんなはかなさのようなものが描かれているとしたら、意外にもこの映画は仏教的なのかもしれないと途方もないことを考える。
ログインしてコメントを確認・投稿する