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2016年03月14日21:26

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『東大名誉教授と名作・モームの『赤毛』を読む 英文精読術』 3(了)



 さて、最後に小生の本書に対する感想を述べたい。本書は1)難しすぎず、易しすぎないモームの文章、2)そのモーム作品に対する行方教授の愛着、3)英文精読についての同教授の情熱、が緊密に合はさつてできた、これこそ本当のコラボレーションと言ひたいやうな類例のない一冊である。これがたとへば、ヘンリー・ジェイムズみたいな文章だつたら、いかに行方教授と言へども、ここまで明快に英文を解きほぐすことは困難であつただらう。

 同時に本書は、明治以来の「英文精読」―― それは漢文訓読の近代的な変形ではないだらうか ―― の一つの頂点であるがゆゑに、その限界をも露呈してゐると言へよう。それは、英米の小説を翻訳で読むといふ習慣の限界とも重なる。思へば、中野好夫の時代はよかつた。英語ができる人は今よりずつと少く、といふよりほとんど存在せず、それだからこそ英米の文化、文学に対する憧れも今よりずつと強く、競つて翻訳書を手にする多数の読者がゐた。とりわけモームの著書への愛好がブームと言へるほど過熱したこと、その翻訳書の売れ行きが東大を辞職した(1953年)中野好夫の生活を下支へした (2) ことなど、今日から考へると嘘のやうな話である。つまり、いまよりもずつとナイーブな、文藝に対する憧憬が広く存在し、大学教授や翻訳家はそれに乗じて(とは言ひ方が悪いが)せつせと外国文学紹介にはげみ、翻訳書がちやんと売れて彼らの生活をあるいは底上げし、あるいは支へてくれるといふ好循環ができてゐた。
 
 それから半世紀以上が過ぎ、文藝翻訳の世界は、少くとも従来の「紙製の本」に限つて言へば、壮大な墓場になりつつあるやうに見える。このタイミングで出現した本書は、それゆゑ、小生にとつては、滅び行く日本の文藝翻訳市場に添へられた墓標のやうに思へる。同時にそれは、日本生れ、日本育ちの日本人による従来の英文の読み方、その技法の到達点として、その限界を明かにする。先に別の記事において指摘したことだが、行方教授が公刊した翻訳は、行方教授の文章にほかならず、中野好夫が公刊した翻訳は、中野好夫の文章に他ならないといふこと。行方教授の文章は、あまり癖がないとは言へ、3種類の翻訳を順番に読むと、次第にピントが絞られて行く様子が感じられるとともに、最後の「翻訳」が、現時点での行方教授の解釈を積極的に示す文章になつてゐることがわかるだらう。また中野好夫の文章には、もつとあくの強い、歴然とした本人の痕跡があることが、引用文からだけでも明瞭に読みとれよう。

翻訳文を読むといふことは、原文のよすがをできるだけとどめようとしながらも(さうでない翻訳は論外)、結局は翻訳者の解釈、あくを同時に読み取らざるを得ない作業である。そして、ここらあたりが、日本人(に限らないが)が英文解釈→英文精読→翻訳と進んで行つても、つひに超えられない限界となる。年初から行方教授の本を何冊か読み、モームの原文もいくらか読んでみて、この感を深くした。むろん小生はこの限界の手前で長年、うろうろしてゐるのである。

 日本の英語教育についても、日本人の英語能力増進にも、ほとんど興味がない小生であるが、水村美苗が望ましいとしたやうな、「自在に英語を駆使して外交、ビジネスなどに活躍する少数のエリートを除き、一般人は日本語を大切に守りながら英語にあまり縁なく暮す」やうな社会は、事実として生れつつあるのではないかとの実感をもつ。ただし「日本語を大切に守りながら」といふ肝心要の点には大きな疑問符がつくのだが。


(1): 『英文法解説』については、本書「おわりに」に、以下の記述がある。
かなり以前に私が拙著の1つで、「英文読解、翻訳に際して、英文法上の疑問
が生じた際は、江川先生の本さえあれば、全部解決できて感謝しています」と
記したことがあり、それが切掛けとなり、亡くなる迄文通させて頂きました。
ある時、私のお願いに応えて、「私の本のどこでも自由に使っても結構です」と
いう許可状を下さったのです。寛大な先生に改めて感謝申し上げます。

  江川泰一郎は、1918(大正7)年、東京・亀戸出身。府立七中(現・都立墨田川高校)を経て1941年東京文理大英文科を卒業。1950〜51年米国コロンビア大学大学院留学。東京学芸大学教授、同名誉教授、日本大学教授などを歴任。2006年没、享年88。

(2): 以下は中野利子著『父 中野好夫のこと』(岩波書店、1992年11月)から。
会社勤めを止めて、一匹狼のライターになろうかと迷っている三十台の男性が
いて、父に相談を持ちかけた。「君はまだ幼い三人の子どもをかかえているの
だろう。早まったことはしない方がいいと思うが」と父は答えたそうだ。「僕
の場合はモームの翻訳など、将来もかなり定期的に収入の入るものを用意して
から辞めたからな」(また[ルビ]聞きなので言葉遣いは不正確と思う)
(同書151ページ)

(了)

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コメント

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2016年03月15日 21:07
    「自在に英語を駆使して外交、ビジネスなどに活躍する少数のエリート」の使う英語と、文学作品の英語は、同じ「英語」とは思えないほどの乖離がある、というのが、社会科学系の英語論文を仕事で覗いたり、研究者同士の会話を小耳に挟んだりしていると、強く感じるわけです。特に論文は記述がパターン化されているので、非英語圏の研究者(こちらが主流になりつつある)でも、それなりに格好はつくし、むしろ修辞的表現は忌避されるので、金太郎飴化が進んでいる。

    それでも、査読のある学術誌(アメリカが圧倒的に権威のある雑誌を多く出している)に論文を掲載してもらうためには、それなりの努力とノウハウが必要で、そのためのセミナーなども開かれている、という在米研究者の報告書を最近、読む機会があった。論文としての基本的な結構はもちろん、望ましい構文、単語・言い回しというのがあって、それは結局、アメリカ英語(それも口語的な)だと。欧州からの出席者からは不満の声が上がったというけど、背に腹は代えられず、かくして表現の単調さに拍車がかかることになる。

    政治やビジネスにおいても同様で、大学の文学部で教わるようなテキストクリティック的読みは、実生活の「グローバリズム」とは無縁に等しく、昨今の文系学部縮小・不要論と軌を一にしているということになろう。そういう状況において、文芸、翻訳とは何かということを学生時代に教わったことを思い出したりしながら、あれこれ考える昨今であります。

    ビジネスとしての出版、特に翻訳はひどい状況にあるけれども、それでもバブルの頃でも翻訳されなかったような本が続々と翻訳、出版されている現在は、読者にとって有り難いし、新潮、早川、東京創元社などが旧作の新訳を相次いで出しているのも、頼もしいことです。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2016年03月17日 11:04
    > mixiユーザー コメントあるがたうございます。

     アメリカはプラグマティズムの国ですから、冷凍料理を電子レンジでチンすればそれなりのものが食べられるやうに、論文の書き方でも、ジャーナリスティックな文章の書き方でも、どんなものでもマニュアル化して、一から忠実に学べば、それなりの文章が書けるやうになつてゐます。(こなひだ紀伊國屋で見て驚いたのですが、オクスフォード大学出版局から、アカデミズムで使ふ語彙の辞書が出てゐました。それもかなり分厚い本格的なやつ。OUPはむろん英国の出版社ですが、米国および非英語圏の学術界からの需要が確実にあるといふことでせう)。
     
     新訳の動きについては、小生、やや懐疑的であります。単なるノスタルジーに過ぎないかもしれないが、中野好夫が50歳前後で訳したモームと、行方氏が80過ぎて訳したモームと比べても、現代の日本語の文章の限界が垣間見えるし、もつと若い世代による新訳では、なほさらではないかと思ふのです。ただしこれは、個人の力量の問題ではないでせうが。

     丸谷才一が、「現代日本語は(一冊本の長篇はともかく)プルーストのやうな大河小説を書けるほどには成熟してゐない」といふやうなことを言つてましたが、そこに通じるやうな気がします。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2016年03月17日 11:06
    「あるがたうございます」→「ありがたうございます」

     しよつぱなからまちがへて恥かしい。最近、画面がよく見えないのです。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2016年03月17日 19:45
    明治以降、翻訳が日本語をつくって(拡張して)きたという面を考えると、まだまだできることはあるのかなと楽観的に考えることにしています。齋藤磯雄先生も「日本語は、鍛えればまだまだ、可能性はある」ということを言っていたそうだし。今は、明治から戦後にかけての遺産が通用しなくなりつつある転換期に来ているので、これから新しい日本語ができていくのでしょう。それが旧世代の嗜好に合うかどうかは別として。「神曲」の原基晶による新訳はそういう側面からみても面白かったし、哲学・思想方面の翻訳は、昔より格段にまともな日本語になってきている。もちろん、下を見たらきりがないのだけど。

mixiユーザー

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