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2019年12月07日00:48
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11-02 晩秋の笹子峠から大鹿峠 歴史と伝説を訪ねて
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YAMAP
軌跡、山行概要、写真75枚
笹子峠･笹子雁ヶ腹摺山･お坊山･大鹿峠
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紅葉前線が関東の山沿いを南下してきた11月初め、好天予報の土曜日を選んで7ヶ月ぶりの山歩きを計画した。
9月9日には台風15号 ファクサイ、10月12日には台風19号 ハギビスが、いずれも関東を通過する台風としては観測史上最強クラスの勢力で首都圏を直撃し、特に19号は山間部や山麓に甚大な被害をもたらした。
北丹沢や道志方面では各所で土砂崩れが発生して林道･道路が寸断され、相模原市の山沿いでは何人もの尊い命が失われた。
丹沢道志の山間部の雨量は800mmを越え、一時は緊急放流も検討された宮ヶ瀬湖や、西丹沢の丹沢湖は流入した土砂により11月に入っても水位は高く水は茶色く濁っている。
丹沢と道志を候補から外した上で 未踏の静かな山を、とあれこれ検討した結果、大菩薩連嶺の最南端に位置する中央線沿線の山を繋いで歩く事にした。
旧 甲州街道の笹子峠から幾つかの山を経て裏街道の大鹿峠へ、歴史と伝説を訪ねて歩く小さな山旅を計画し、天気予報とにらめっこしながら週末を待つ。
0、旧 甲州街道を行く 笠懸地蔵と黒野田宿
11月2日(土)、三連休の初日の朝。
中央線が高尾を過ぎると、車窓は山また山の景色となる。
相模湖や藤野の辺りから望む山々はまだ朝霧のベールに包まれて白く霞んでいたが、空は青く好天予報は当たりのようだ。
電車が四方津にさしかかると山の端から朝陽が射し込んで忽ち霧のカーテンを開け放ち、南西に前道志の盟主 倉岳山が姿を現した。
流れ去る霧の上に浮かぶ尖峰は、標高990mの低山とは思えない風格を漂わせる。
梁川、鳥沢の辺りで山々は再び霧に包まれたが、眼下の桂川沿いの木々が色づき始めているのが見えた。
笹子で降りたハイカーは約10人。駅前でおにぎりを頬張りながら様子を見ていると、ほぼ全員が滝子山に向かったようだ。
8時、出発。
国道20号線を西に進むと、「笠懸地蔵」とその説明板を左手に見る。
このお地蔵さんはでっぷりとした体格で なんともユーモラスな表情をしており、笠を頭に載せたその姿は一度見たら忘れられないインパクトを持っている。
幕末の安政二年(1855年)造立との事だが、その経緯は不明なようだ。
時代背景としては、幕府の屋台骨を揺るがす内憂外患が愈々深まって世情騒然とする中、甲州ではいわゆる天保郡内騒動(1836年)の引き金になったように、庶民の暮らしは凶作による飢饉や重い租税負担により貧窮を極めていた。
そんな暗く閉塞感の漂う時代だからこそ、腹いっぱい食べて幸せに暮らせる日を夢見る庶民の切実な願いをこめて、このような太鼓腹に面白い表情の地蔵が彫られたのではないだろうか。顔をじっと見ていると次第にユーモラスを通り越して鬼気迫る表情にも思えてくるのだった。
ここは甲州街道の起点 日本橋から数えて33番目の宿場 黒野田宿があった場所で、本陣跡の古めかしい門の脇には｢明治天皇行在所趾｣の柱が立っている。
明治13年の御巡幸の際に一泊されたとの事だ。
江戸時代の黒野田宿は本陣1･脇本陣1･旅籠14を擁し、街道随一の難所 笹子峠の麓であった事から多くの旅人で賑わったらしい。
笹子川に架かる屋影橋を渡ると、遠くに行く手を阻む山々が見えてきた。
南北を山地に挟まれた街道を東から歩いてきた旅人は、笹子峠の山越えを前に新たな草鞋を買い求め、念入りに足拵えをして峻険な山道に備えた事だろう。一方、西から無事に笹子峠を越えてきた旅人はこの辺りでほっとして疲れを癒したのではないだろうか。
1、矢立の杉から笹子峠へ
追分地区で路傍に馬頭観世音碑や愛宕社の石燈籠(安政三年 1856年)を見て、新田地区で国道20号線と別れて甲州街道 旧道に入る。
この分岐が笹子雁ヶ腹摺山の登山道入口で、暫く様子を見ていると3人の単独男性が次々と尾根に取り付いていった。尾根を直登するそのコースはなかなかの急登らしい。
峠への旧道に向かうのは自分だけなのを確認して出発し、新田下のバス停の先で舗装路を外れて民家の庭先を横切る。
人なつっこそうな白い日本犬に見送られ、山中の旧道に入った。
新田沢の右岸に付けられた人工林の中の径を暫く進むと、県道212号 日影笹子線に出た。概ね旧 甲州街道に沿っており、現在は甲州市と大月市を結ぶ一般県道である。
すぐに県道を外れ、笹子峠自然遊歩道に入って山道を行くと木立に囲まれた平坦地に出て、そこに「明治天皇御野立所跡」の石碑があった。
一泊したのならともかく、休憩しただけでそこに立派な石碑が建てられるとは……と驚きつつ説明板を読んでみれば、当時のこの地の領主 天野家の発願により建立は昭和12年、碑の文字を揮毫したのは時の陸軍大将との事だ。
この石碑のすぐ近くの路傍の草むらには庚申信仰に纏わるらしいかなり古い小さな石仏があった。
ふと振り向くと後ろから鼻唄を歌いながら歩いてくる高齢男性の姿が見えたので、独り歩きを邪魔されたくなくてすぐに出発する。
ところがその数分後、どこかで帽子を落としてしまった事に気付いて慌てて引き返すと、この男性が拾ってくださっていて笑顔で手渡してくれたのだった。ありがたく、感謝を述べる。
「矢立の杉」はこのすぐ先にあり、落雷で上部が失われて久しい寸胴の杉は樹齢1000年以上という巨木だが、幹の中は空洞との事でまだ生きているのが不思議に思えるほどだ。雷は一番高いところに落ちるというから、太い幹に見合うかつての樹高を想像すると、昔は周囲を睥睨して圧倒的な存在感を誇っていたのだろう。
大月市観光協会のホームページには、以下のように紹介されている。
「樹高約28m、根廻り14.8m、目通幹囲9m、幹は地上約22mで折損し中は上まで空洞となっている。
梢頭の数枝は風害によって白骨化している上に、幹の空洞内は昭和4年の火災で木炭化している。
この木は甲斐国誌、甲斐叢記などの古い本に記され、江戸時代末期の浮世絵師・葛飾北斎や二代目歌川広重の名画にも残されているなど、古来有名な木であるとともに、スギの巨樹として県下有数なものである。
また、樹齢1000年を超す矢立ての杉は、戦国時代合戦に赴く武士が必勝を祈願して、この木に矢を射ったことからその名前がついたと云われている。江戸時代初めに甲州街道が開通し人々の往来も盛んになり、旅人たちの憩いの場となった。」
【甲斐叢記】には「(笹子山)絶頂より下ること十丁許にして圍丈五尺許の古杉あり 箭立杉と呼ぶ 昔時軍陣に出る兵士箭一筋を此杉射立て富士淺間明神に賽せしと云へり｣との記述がある。
また、江戸時代末期の浮世絵師 二代目 歌川広重の代表作【諸国名所百景】には「甲州矢立杉」(安政六年 1859年)の絵があり、旅人が憩う様子が描かれている。
折悪しく5、6人のハイカーが後ろから追いついてきて賑やかになったので、巨樹の霊気に浸る間もなく早々に出発する。
またいずれ再訪しよう。
2、笹子峠に武田哀史を偲ぶ
再び県道に出て色づいた木々の梢を見上げながら歩いていくと、やがて前方にトンネルが見えてきた。
これが甲州街道 随一の難所とされた笹子峠の直下を貫く「笹子隧道」で、昭和13年にこのトンネルが開通した事で街道交通の利便性は大きく高まったものの時代の変遷は目まぐるしく、昭和33年には山麓に開通した新笹子隧道に主役の座を譲り、昭和46年には事実上、物資の輸送道路としての役割を終えたとの事だ。
入口はレンガ調の洋風建築を思わせるモダンな雰囲気の隧道だが、今では車や人の通行は稀らしく、現に今日は県道で車にも人にも出会っていない。
扁額を見上げて坑口の前に立つと静かな風がさやさやと流れて来て、落ち葉がカサカサと私の足に纏わりついた。
笹子峠はこのトンネルの真上にある。
この峠は往古より山越えの交通の要衝であったが、長らく甲斐武田氏の領内であった為、武田氏の歴史と関わりの深い峠だった。
歴史上、武田宗家は二度にわたって笹子峠の北で滅びている。
一度目は、600年前の室町時代の事。
室町時代の鎌倉には甲斐を含む関東8ヵ国の統治の為に鎌倉府が置かれ、これを鎌倉公方が統括し関東管領が補佐しており、管領職は上杉氏の世襲となっていた。
1415年、当時の関東管領 上杉氏憲(禅秀)は鎌倉公方 足利持氏の不興を買って更迭される。禅秀は密かに鎌倉府に不満を持つ伝統的な豪族層を募り、4代将軍 足利義持の弟 義嗣らと謀って翌年10月に挙兵した。これが｢上杉禅秀の乱｣である。
禅秀の縁戚にあたる武田信満(甲斐武田氏 第13代当主 甲斐国･安芸国の守護)もこれに呼応して兵を挙げ、禅秀らと共に一時 鎌倉を占拠した。
反乱の一報が京都に届くと、将軍 足利義持はこの反乱を鎮圧すべく討伐軍を結成させ、駿河･武蔵･相模の各地で激戦が繰り広げられた。
1417年1月、追い詰められた禅秀らは鎌倉雪ノ下で自害、反乱は鎮圧された。
武田信満は笹子峠を越えて自領に逃亡したが、追討軍に追撃されて天目山で自害した。
これにより甲斐武田氏は鎌倉時代から長年守ってきた守護の地位を失って一時断絶した。
二度目は、戦国時代末期であった。
その後 再興した武田氏は、第19代 当主 武田信玄の時代には織田信長･徳川家康と拮抗するほどに勢力を拡大し、最盛期には甲斐国・信濃国を中心に計9カ国120万石の領土を有して天下統一を狙う群雄の一角を占めた。
しかし信玄の急死により情勢は一変、 勝頼の代になると次第に家中を掌握しきれなくなり、時勢にも遅れ始めた。
1575年には歴史に名高い｢長篠の戦い｣で大敗を喫し、武田は信玄時代からの重臣を多数失って一気に傾いていく。
勝頼は甲相同盟や甲越同盟を結ぶなど外交に注力したが奏功せず、家臣の離反も止まる事なく続き、領国に動揺が広がっていった。次第に三方から織田・徳川・北条の圧力が強まり、1582年2月に織田信長が甲州征伐に着手すると武田の城は次々と落ちて、追い詰められた勝頼は新府城を捨て、残った重臣の一人だった小山田信茂を頼って郡内地方に逃れようとする。しかし、その小山田にも裏切られてしまうのだった。
武田信玄の従妹で勝頼の乳母を務めた理慶尼が武田氏滅亡までを記録した「理慶尼記」によれば、天正10年(1582年)3月、織田・徳川軍に追われて郡内に逃れようとした勝頼が小山田信茂の裏切りを知ったのがこの笹子峠だという。
峠に布陣した小山田の手勢に阻まれた勝頼とその忠臣らの一団はやむなく引き返し、かつて武田信満が滅び、武田家の墓がある天目山を目指して峻険な日川渓谷を北上する。
しかし織田方に寝返った土豪らや織田の軍勢による挟撃に遭い、勝頼に最期まで従っていた残り僅かな忠臣たちの奮戦むなしく、戦国の乱世に勇名を轟かせた名門 甲斐武田氏は、ついに山峡の田野にて滅亡した。
東から峠を越えて敗走した武田信満、西から峠を越えられなかった武田勝頼。
山麓に武田氏滅亡の哀史を秘め、往古より幾多の旅人が苦難の末に越えた笹子峠を、今は歴史ロマンを慕うハイカーと樹林を渡る風だけが越えていく。
笹子峠の描写で私にとって最も印象的なのは【多摩・秩父・大菩薩】(原全教)(朋文堂 昭和16年)の記述だ。
原全教は昭和3年11月末、今回 私が歩いたのと同じルートで笹子峠から大鹿峠までを歩き、「甲斐の國中と郡内をつないだ大動脈の忘れられた廢道の面影を訪れた記録」と題して詳述した。
笹子峠については｢峠の懷古｣の項で次のように記述している。
「應永廿三年武田信滿は都留郡の戰に負けて、この峠をこし、日川奥へ逃れて天目山で自殺した。甲斐源氏最後の主 勝�鬚老監發隆篥造望�山田信茂を�鬚弔討�て裏切られ、やはり同じ運命の一路を日川の窮谷にもとめて、田野の平に新羅三郎廿八代の幕をとぢた。荒れはてた峠にたたずんで目まぐるしい興亡盛衰の跡をしのぶ。甲州街道華やかなりし頃は馬や駕籠がつづいた。明治廿一年客馬車と荷馬車が通じて、一つの大きい轉換がもたらされ、さらに甲武線(中央線)の開通といふ人の世の大きい異變は、つひに歴史あるこの峠を、忘却の彼方へと置き去りにしてしまつた。｣
また、【奥多摩渓谷】の著者として知られた岩根常太郎は、戦前の【健歩雑誌 ハイキング104号】(ハイキング社 昭和16年)所収「大菩薩の山々」の中で、｢笹子峠は今は訪者も尠ないうらぶれた場所となつてしまつて、舊幕時代に榮えた夢の名殘りも殘つてはゐない｣と表現した。
令和元年11月2日。誰もいない峠はひっそりと静まり返り、人待ち顔の道標が立っている。峠の歴史を知らなければ、ここも地形上の単なる小鞍部に過ぎない。
旧 笹子村側には馬や駕籠が休めそうな平地がある。一方、旧 大和村側には明治の末まであった茶店の跡地や石仏があるそうだ。いずれは古人のように峠越えをしてみたいと思いつつ、峠に別れを告げる。
今日はここから本格的な山歩きだ。
3、笹子雁ヶ腹摺山
時刻は10時40分。
峠から東へ短い急登をこなして一息つくと、あとは尾根通しに笹子雁ヶ腹摺山の山頂を目指す。
今年の長雨や台風の影響なのか葉の色は鮮やかさに欠けるが、晴天に映える彩り豊かな秋色の雑木林が眩しい。
高齢の御夫婦が下ってきたので登山道脇で待つと、温和そうな御主人は「ありがとう、ありがとう」と声をかけてくださり、後ろの奥様を振り返って「あわてないで」と気遣いの言葉をかけた。奥様は私に会釈して「お気をつけて」と優しい口調で挨拶してくださった。実に上品な慈愛に満ちた御夫婦で、人生の実りの秋はかくありたいものだ。
小さな送電線鉄塔が立つ所で、路は尾根路と巻き道に分かれる。秋の陽に銀色に輝く芒の穂にそっと顔を近づけると、8月の御盆に息を引き取った愛猫エリの体毛を彷彿させる感触が頬を撫でた。
晩秋の尾根路を辿り、やがて巨大な送電線鉄塔の脇を抜けると山頂に至る最後の急登となった。
メタリックに光り輝く身体を持ち、｢森の掃除屋さん｣とも呼ばれるセンチコガネを見かけ、じっくりと観察する。
生態系では分解者の地位にあり、動物の糞を分解する事から「糞虫」の名もあるが、そんな風に呼んでは失礼というものだ。
久しぶりの山の感触を楽しみながらゆっくり歩いたとはいえ、峠から丸2時間を要して12時40分、ようやく山頂に登り着いた。
(＊江戸時代、この一帯の山々は「笹子山」或いは「篠籠(ササゴ)山」と総称されていた。1358m峰を指す｢笹子ノ雁ヶ腹摺｣の呼称がいつから使われたか定かではないが、大菩薩連嶺内に幾つかある｢雁ヶ腹摺」｢雁ノ腹摺｣の山名地名が少なくとも江戸時代に遡る事は【甲斐国志】(松平定能 1814年)の記述から明らかになっている。
また、日川渓谷沿いの村からはこの山の山頂の形が富士山の山頂部と似た屋根型に見えた事から｢御殿｣、黒木の山であった事から｢黒嶽｣とも呼ばれていた。＊)
山頂には標識や標柱が幾つもあって賑やかだが、誰もいない。
この日は景色が少々霞みがかっていたが、甲府盆地を取り巻く山々の向こうには南アルプスと八ヶ岳の壮麗な山波が、恰も天空の城塞のように浮かんでいた。
空気が澄みきった冬晴れの日なら、素晴らしい大展望を楽しめそうだ。
ベンチに腰かけておにぎりを食べ、13時00分、腰を上げる。
4、米沢山
東に10分ほど進むと前方に展望が開けて、これから歩く山々が意外なほど重厚な山体を見せた。
この季節ならそろそろ下山にかかろうかという昼過ぎの時間から縦走するには、なかなか骨太な山々に見える。7ヶ月ぶりのいわばリハビリ登山のような今回、日没までに踏破できるのか少々不安になってしまったが、ここは頑固な中年男の意地を通して進む。
この先 いったいどこまで下らせるのかと愚痴の一つも言いたくなるほどの長い下りを経て、当然の事ながら大きな登り返しが待っていた。
ヤセ尾根や岩場を織り交ぜて変化に富んだ山路に時々息を切らしながらも、青空に映える秋色の木々に励まされ、時折覗く展望に見入りつつ進む。
途中の小ピークでは南の方に伐り開きがあったので寄り道すると、予期せぬ大展望に恵まれた。
南に御坂山地の主峰 黒岳(1793)、三ツ峠山(1785)、南東には道志山塊 最高峰の御正体山(1681)など山梨県東南部の山波が何ら遮るもの無く展開し、眩しい逆光に浮かぶ富士の姿は幻のようだ。足元には中央線沿線の僅かな平地が東西に長く伸びて、ここは郡界尾根随一の、南の展望台と言えるだろう。
笹子雁ヶ腹摺山-米沢山 間の山腹は中央自動車道、国道20号線、JR中央本線の3本の長いトンネルに貫かれているが、稜線の自然の豊かさはそれを微塵も感じさせない。
現在の山と高原地図(昭文社)に危険マークと急坂の表記があるのは山頂直下の岩場で、古いがしっかりとした鎖が付いていた。
資料によれば、西麓の大和村 観光課が新たなハイキングコースを開拓しようと登山道を整備したのは昭和49年との事。私が産まれる前年なので何やら親しみを感じる。
当時は各 登山雑誌に新コースとして紹介されたそうだが、昭和51年の山と高原地図には破線すら記載されておらず、同61年の地図では破線ルートとなっていた。
現在の地図では一般登山道だが、どうやら自分のようなひねくれた中年男や渋好みの静山派だけが歩いているようだ。
14時10分、米沢山 山頂に至る。
(※米沢山の名は、南麓の笹子に流下する米沢に由来する。北麓では｢矢平峰｣と呼ばれていた。｢ヤダイロ｣は前道志の倉岳山の東にも同名の山がある。※)
5、トクモリ・お坊山
前方にぽっこりとした双耳峰のようなお坊山を仰ぎながら自然林の尾根道を歩み、北麓で｢トクモリ｣と総称された幾つかの峰頭を越えていく。
陽も傾いてきた晩秋の山路の独り旅をじっくりと味わいながら歩いていくと、急に人影が見えて若い男女混成6人組と擦れ違った。装備や雰囲気から見て、私が学生時代に所属していた大学の山サークルのようなグループだろう。
下山まではまだまだ時間がかかる地味なコースの稜線上でこんな時間に人に出くわすとは、お互いに驚いたような状況だった。
お坊山の山頂直下からは北と西に大きく展望が開けて、甲府盆地の東側の山々と南大菩薩の山嶺を望み、振り返れば今日歩いてきた山々がはや懐かしく西陽の逆光に黒く蟠って、峠と山を越えて遥々歩いてきた実感に暫し浸る。
先程から、何度も鹿の鳴き声を聴いている。
「奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき」(猿丸太夫 古今和歌集 百人一首)の古歌の境地に誘われ、山に来て本当に良かったと思える瞬間は、まさにこんな時である。
お坊山(1430)の山頂は米沢山と同様に雑木林の中の慎ましやかな雰囲気が好ましい。
現在はここが｢お坊山｣という事になっているが昔は北麓で称された｢トクモリ｣の一峰であって、南麓の笹子から見上げたお坊山は、厳密には小鞍部を経た南東の1421Pにあたる。
このピークには現在｢東峰｣の標識が立っており、こちらも展望の無い落ち着いた雑木林の中にある。
6、大鹿峠の巨鹿伝説
時刻は15時20分。下山に向けて、まずは大鹿峠を目指す。
高度を峠まで一気に300m下げる下り一辺倒の道で、相変わらず見通しの良い広葉樹林が続くが落ち葉で道形不明瞭の箇所もあって、あまりハイカーに歩かれていない事がわかる。
前方には一昨年の10月に歩いた滝子山から大谷ヶ丸にかけての稜線を仰ぎつつ、落ち葉を踏みしめて無心にひた下る。峠が見えてきたところで東の斜面でガサガサと慌ただしい音が湧き、尻の白い毛を揺らして駆け下る鹿の後ろ姿が見えた。
(＊現在のお坊山・大鹿峠・大鹿山・金洞丸・大谷ヶ丸を含む大鹿川源流域一帯の山々の昔の総称は「大鹿山」で、これは遠い昔にこの山域に棲んでいたという伝説の大鹿に由来するとの事。
【北都留郡誌】(大正14年)や【東山梨郡誌】(大正5年)にも大鹿伝説が記されているが、俚伝の一つによれば、山に残された大きな足跡から ずば抜けた巨体を持つ三本脚の大鹿の存在が噂され、近郷の猟師たちが総力を挙げて追ったものの 射る事も捕らえる事もできなかったという。
南麓の笹子のみならず北麓の田野にも類似の伝説があって、登場人物や内容に相違はあれどいずれも巨体の鹿を狩るという点で共通しており、笹子の東の「初狩」、西の山向こうの「初鹿野」といったかつての村名も、大鹿をめぐる狩猟伝説に由来するという説もある。
また、南麓に「男鹿大明神」と呼ばれる場所があり、さらに鹿を擬人化した掛け軸が見つかっている事から、鹿の狩猟に纏わる伝説や信仰がこの地に根づいていた事、その背景として巨躯の大鹿が実在していた可能性を思うと、伝説好きの私にとって実に興味深いものがある。昔は男鹿山、雄鹿山と呼ばれたが、転化して大鹿山の漢字が宛てられ、源流域の1236m峰にその名が付されている。＊)
山の端に暮れゆく晩秋の夕陽に照らされた黄金色の大鹿峠に下り立つと、先程の鹿のものだろうか、大鹿川の谷間から大きな鳴き声が三度、山肌に響きわたった。
ひょっとしたら、声の主は遥か昔にこの山々に君臨していたというあの伝説の大鹿の血を引く末裔ではなかろうか……、甲州街道 笹子峠の裏街道であったこの峠の歴史情緒も相俟って、私は独り しみじみとした感傷に浸るのだった。
暫く佇んでいると、西から小さな野鳥たちが飛来して木々の梢に次々と止まり、峠は俄に賑やかになった。鳥たちもまた、峠を越えて巣に帰るのだろうか。
峠の風情を愛する私にとって、ここもまた実に印象深い峠となった。
7、天狗尾根から鳥居畑古戦場跡へ
時刻は間もなく16時、陽は山の端にかかっている。山中が暗くなるまで猶予はあと1時間も無いだろう。
地図を広げて下山ルートを検討する。
南東に下れば大鹿川沿いから道証地蔵を経て笹子へ、北西に下れば田野の景徳院近くから甲斐大和へ、となる。
東は谷沿いで先般の台風による影響が読めず暗くなるのが早い上に所要時間が長い。西は尾根上を下るのでおそらく安全で日没まで明るさが期待できそうだ。
土地勘があるのは笹子だが、西の田野に下ってみる事にした。
(＊古地図【笹子村】(明治21年)を見ると、裏街道は笹子の吉久保･原で笹子峠への街道を離れて大鹿川沿いに入り、道標の役割を兼ねていた道証地蔵(文政三年 1820年)を通って谷沿いを登り、大鹿峠に至る。
【甲斐国志】には「笹子峠より北に坂路あり 是 白野より初鹿野に越る道なり
…(中略)…峯數峯あり皆 大鹿山と云ふ」と記されている。＊)
靴紐を結び直して身支度を整え、16時、下山を開始する。
幾つかの案内書には「天狗尾根」との名称があるこの尾根に付けられた道形は明瞭で、迷いようもなく快調に下る。
山の端に沈みゆく夕陽が雑木林を茜色に染めあげて、晩秋の山歩きのフィナーレを飾るにふさわしい情景に暫し見とれて佇む。
やがてこの日 初めて人工林帯に入り、径路に忠実に下るとやや荒れた氷川神社の前を経て、田野の町を見下ろす斜面に出た。
時刻は間もなく17時、山々の向こうの空は残照の余韻を僅かに残すだけとなっていた。
民家の軒先を横切って下るが田野の集落に人影は無い。
武田勝頼らの墓がある景徳院はもう薄闇に閉ざされ、甲斐武田氏 最後の戦場となった｢鳥居畑古戦場跡｣の石碑も宵闇に紛れようとしていた。
戦国の武田哀史に黙祷を捧げ、すっかり暮れ落ちた夜道を一路、甲斐大和駅へと向かう。
mixi
「丹沢を歩く会」コミュニティ
副管理人 S∞MЯK
モリカワ ショウゴ
(現 事務局長)
ユーザーネーム
YAMAP
☆S∞MЯK★エリゴンズ
ヤマレコ
smrktoraerigon
Twitter
☆S∞MЯK★丹沢Λ@moyanotabikai
(ヤマレコには記録は残していません。
同好の士とのメッセージ等の連絡用に作りました。山ツイッターは始めたばかりです。
moyanotabikai(靄の旅会)は｢霧の旅会｣へのオマージュです。)
上記アプリやSNSに登録している方、よろしくお願い申し上げます。
軌跡、山行概要、写真75枚
笹子峠･笹子雁ヶ腹摺山･お坊山･大鹿峠
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紅葉前線が関東の山沿いを南下してきた11月初め、好天予報の土曜日を選んで7ヶ月ぶりの山歩きを計画した。
9月9日には台風15号 ファクサイ、10月12日には台風19号 ハギビスが、いずれも関東を通過する台風としては観測史上最強クラスの勢力で首都圏を直撃し、特に19号は山間部や山麓に甚大な被害をもたらした。
北丹沢や道志方面では各所で土砂崩れが発生して林道･道路が寸断され、相模原市の山沿いでは何人もの尊い命が失われた。
丹沢道志の山間部の雨量は800mmを越え、一時は緊急放流も検討された宮ヶ瀬湖や、西丹沢の丹沢湖は流入した土砂により11月に入っても水位は高く水は茶色く濁っている。
丹沢と道志を候補から外した上で 未踏の静かな山を、とあれこれ検討した結果、大菩薩連嶺の最南端に位置する中央線沿線の山を繋いで歩く事にした。
旧 甲州街道の笹子峠から幾つかの山を経て裏街道の大鹿峠へ、歴史と伝説を訪ねて歩く小さな山旅を計画し、天気予報とにらめっこしながら週末を待つ。
0、旧 甲州街道を行く 笠懸地蔵と黒野田宿
11月2日(土)、三連休の初日の朝。
中央線が高尾を過ぎると、車窓は山また山の景色となる。
相模湖や藤野の辺りから望む山々はまだ朝霧のベールに包まれて白く霞んでいたが、空は青く好天予報は当たりのようだ。
電車が四方津にさしかかると山の端から朝陽が射し込んで忽ち霧のカーテンを開け放ち、南西に前道志の盟主 倉岳山が姿を現した。
流れ去る霧の上に浮かぶ尖峰は、標高990mの低山とは思えない風格を漂わせる。
梁川、鳥沢の辺りで山々は再び霧に包まれたが、眼下の桂川沿いの木々が色づき始めているのが見えた。
笹子で降りたハイカーは約10人。駅前でおにぎりを頬張りながら様子を見ていると、ほぼ全員が滝子山に向かったようだ。
8時、出発。
国道20号線を西に進むと、「笠懸地蔵」とその説明板を左手に見る。
このお地蔵さんはでっぷりとした体格で なんともユーモラスな表情をしており、笠を頭に載せたその姿は一度見たら忘れられないインパクトを持っている。
幕末の安政二年(1855年)造立との事だが、その経緯は不明なようだ。
時代背景としては、幕府の屋台骨を揺るがす内憂外患が愈々深まって世情騒然とする中、甲州ではいわゆる天保郡内騒動(1836年)の引き金になったように、庶民の暮らしは凶作による飢饉や重い租税負担により貧窮を極めていた。
そんな暗く閉塞感の漂う時代だからこそ、腹いっぱい食べて幸せに暮らせる日を夢見る庶民の切実な願いをこめて、このような太鼓腹に面白い表情の地蔵が彫られたのではないだろうか。顔をじっと見ていると次第にユーモラスを通り越して鬼気迫る表情にも思えてくるのだった。
ここは甲州街道の起点 日本橋から数えて33番目の宿場 黒野田宿があった場所で、本陣跡の古めかしい門の脇には｢明治天皇行在所趾｣の柱が立っている。
明治13年の御巡幸の際に一泊されたとの事だ。
江戸時代の黒野田宿は本陣1･脇本陣1･旅籠14を擁し、街道随一の難所 笹子峠の麓であった事から多くの旅人で賑わったらしい。
笹子川に架かる屋影橋を渡ると、遠くに行く手を阻む山々が見えてきた。
南北を山地に挟まれた街道を東から歩いてきた旅人は、笹子峠の山越えを前に新たな草鞋を買い求め、念入りに足拵えをして峻険な山道に備えた事だろう。一方、西から無事に笹子峠を越えてきた旅人はこの辺りでほっとして疲れを癒したのではないだろうか。
1、矢立の杉から笹子峠へ
追分地区で路傍に馬頭観世音碑や愛宕社の石燈籠(安政三年 1856年)を見て、新田地区で国道20号線と別れて甲州街道 旧道に入る。
この分岐が笹子雁ヶ腹摺山の登山道入口で、暫く様子を見ていると3人の単独男性が次々と尾根に取り付いていった。尾根を直登するそのコースはなかなかの急登らしい。
峠への旧道に向かうのは自分だけなのを確認して出発し、新田下のバス停の先で舗装路を外れて民家の庭先を横切る。
人なつっこそうな白い日本犬に見送られ、山中の旧道に入った。
新田沢の右岸に付けられた人工林の中の径を暫く進むと、県道212号 日影笹子線に出た。概ね旧 甲州街道に沿っており、現在は甲州市と大月市を結ぶ一般県道である。
すぐに県道を外れ、笹子峠自然遊歩道に入って山道を行くと木立に囲まれた平坦地に出て、そこに「明治天皇御野立所跡」の石碑があった。
一泊したのならともかく、休憩しただけでそこに立派な石碑が建てられるとは……と驚きつつ説明板を読んでみれば、当時のこの地の領主 天野家の発願により建立は昭和12年、碑の文字を揮毫したのは時の陸軍大将との事だ。
この石碑のすぐ近くの路傍の草むらには庚申信仰に纏わるらしいかなり古い小さな石仏があった。
ふと振り向くと後ろから鼻唄を歌いながら歩いてくる高齢男性の姿が見えたので、独り歩きを邪魔されたくなくてすぐに出発する。
ところがその数分後、どこかで帽子を落としてしまった事に気付いて慌てて引き返すと、この男性が拾ってくださっていて笑顔で手渡してくれたのだった。ありがたく、感謝を述べる。
「矢立の杉」はこのすぐ先にあり、落雷で上部が失われて久しい寸胴の杉は樹齢1000年以上という巨木だが、幹の中は空洞との事でまだ生きているのが不思議に思えるほどだ。雷は一番高いところに落ちるというから、太い幹に見合うかつての樹高を想像すると、昔は周囲を睥睨して圧倒的な存在感を誇っていたのだろう。
大月市観光協会のホームページには、以下のように紹介されている。
「樹高約28m、根廻り14.8m、目通幹囲9m、幹は地上約22mで折損し中は上まで空洞となっている。
梢頭の数枝は風害によって白骨化している上に、幹の空洞内は昭和4年の火災で木炭化している。
この木は甲斐国誌、甲斐叢記などの古い本に記され、江戸時代末期の浮世絵師・葛飾北斎や二代目歌川広重の名画にも残されているなど、古来有名な木であるとともに、スギの巨樹として県下有数なものである。
また、樹齢1000年を超す矢立ての杉は、戦国時代合戦に赴く武士が必勝を祈願して、この木に矢を射ったことからその名前がついたと云われている。江戸時代初めに甲州街道が開通し人々の往来も盛んになり、旅人たちの憩いの場となった。」
【甲斐叢記】には「(笹子山)絶頂より下ること十丁許にして圍丈五尺許の古杉あり 箭立杉と呼ぶ 昔時軍陣に出る兵士箭一筋を此杉射立て富士淺間明神に賽せしと云へり｣との記述がある。
また、江戸時代末期の浮世絵師 二代目 歌川広重の代表作【諸国名所百景】には「甲州矢立杉」(安政六年 1859年)の絵があり、旅人が憩う様子が描かれている。
折悪しく5、6人のハイカーが後ろから追いついてきて賑やかになったので、巨樹の霊気に浸る間もなく早々に出発する。
またいずれ再訪しよう。
2、笹子峠に武田哀史を偲ぶ
再び県道に出て色づいた木々の梢を見上げながら歩いていくと、やがて前方にトンネルが見えてきた。
これが甲州街道 随一の難所とされた笹子峠の直下を貫く「笹子隧道」で、昭和13年にこのトンネルが開通した事で街道交通の利便性は大きく高まったものの時代の変遷は目まぐるしく、昭和33年には山麓に開通した新笹子隧道に主役の座を譲り、昭和46年には事実上、物資の輸送道路としての役割を終えたとの事だ。
入口はレンガ調の洋風建築を思わせるモダンな雰囲気の隧道だが、今では車や人の通行は稀らしく、現に今日は県道で車にも人にも出会っていない。
扁額を見上げて坑口の前に立つと静かな風がさやさやと流れて来て、落ち葉がカサカサと私の足に纏わりついた。
笹子峠はこのトンネルの真上にある。
この峠は往古より山越えの交通の要衝であったが、長らく甲斐武田氏の領内であった為、武田氏の歴史と関わりの深い峠だった。
歴史上、武田宗家は二度にわたって笹子峠の北で滅びている。
一度目は、600年前の室町時代の事。
室町時代の鎌倉には甲斐を含む関東8ヵ国の統治の為に鎌倉府が置かれ、これを鎌倉公方が統括し関東管領が補佐しており、管領職は上杉氏の世襲となっていた。
1415年、当時の関東管領 上杉氏憲(禅秀)は鎌倉公方 足利持氏の不興を買って更迭される。禅秀は密かに鎌倉府に不満を持つ伝統的な豪族層を募り、4代将軍 足利義持の弟 義嗣らと謀って翌年10月に挙兵した。これが｢上杉禅秀の乱｣である。
禅秀の縁戚にあたる武田信満(甲斐武田氏 第13代当主 甲斐国･安芸国の守護)もこれに呼応して兵を挙げ、禅秀らと共に一時 鎌倉を占拠した。
反乱の一報が京都に届くと、将軍 足利義持はこの反乱を鎮圧すべく討伐軍を結成させ、駿河･武蔵･相模の各地で激戦が繰り広げられた。
1417年1月、追い詰められた禅秀らは鎌倉雪ノ下で自害、反乱は鎮圧された。
武田信満は笹子峠を越えて自領に逃亡したが、追討軍に追撃されて天目山で自害した。
これにより甲斐武田氏は鎌倉時代から長年守ってきた守護の地位を失って一時断絶した。
二度目は、戦国時代末期であった。
その後 再興した武田氏は、第19代 当主 武田信玄の時代には織田信長･徳川家康と拮抗するほどに勢力を拡大し、最盛期には甲斐国・信濃国を中心に計9カ国120万石の領土を有して天下統一を狙う群雄の一角を占めた。
しかし信玄の急死により情勢は一変、 勝頼の代になると次第に家中を掌握しきれなくなり、時勢にも遅れ始めた。
1575年には歴史に名高い｢長篠の戦い｣で大敗を喫し、武田は信玄時代からの重臣を多数失って一気に傾いていく。
勝頼は甲相同盟や甲越同盟を結ぶなど外交に注力したが奏功せず、家臣の離反も止まる事なく続き、領国に動揺が広がっていった。次第に三方から織田・徳川・北条の圧力が強まり、1582年2月に織田信長が甲州征伐に着手すると武田の城は次々と落ちて、追い詰められた勝頼は新府城を捨て、残った重臣の一人だった小山田信茂を頼って郡内地方に逃れようとする。しかし、その小山田にも裏切られてしまうのだった。
武田信玄の従妹で勝頼の乳母を務めた理慶尼が武田氏滅亡までを記録した「理慶尼記」によれば、天正10年(1582年)3月、織田・徳川軍に追われて郡内に逃れようとした勝頼が小山田信茂の裏切りを知ったのがこの笹子峠だという。
峠に布陣した小山田の手勢に阻まれた勝頼とその忠臣らの一団はやむなく引き返し、かつて武田信満が滅び、武田家の墓がある天目山を目指して峻険な日川渓谷を北上する。
しかし織田方に寝返った土豪らや織田の軍勢による挟撃に遭い、勝頼に最期まで従っていた残り僅かな忠臣たちの奮戦むなしく、戦国の乱世に勇名を轟かせた名門 甲斐武田氏は、ついに山峡の田野にて滅亡した。
東から峠を越えて敗走した武田信満、西から峠を越えられなかった武田勝頼。
山麓に武田氏滅亡の哀史を秘め、往古より幾多の旅人が苦難の末に越えた笹子峠を、今は歴史ロマンを慕うハイカーと樹林を渡る風だけが越えていく。
笹子峠の描写で私にとって最も印象的なのは【多摩・秩父・大菩薩】(原全教)(朋文堂 昭和16年)の記述だ。
原全教は昭和3年11月末、今回 私が歩いたのと同じルートで笹子峠から大鹿峠までを歩き、「甲斐の國中と郡内をつないだ大動脈の忘れられた廢道の面影を訪れた記録」と題して詳述した。
笹子峠については｢峠の懷古｣の項で次のように記述している。
「應永廿三年武田信滿は都留郡の戰に負けて、この峠をこし、日川奥へ逃れて天目山で自殺した。甲斐源氏最後の主 勝�鬚老監發隆篥造望�山田信茂を�鬚弔討�て裏切られ、やはり同じ運命の一路を日川の窮谷にもとめて、田野の平に新羅三郎廿八代の幕をとぢた。荒れはてた峠にたたずんで目まぐるしい興亡盛衰の跡をしのぶ。甲州街道華やかなりし頃は馬や駕籠がつづいた。明治廿一年客馬車と荷馬車が通じて、一つの大きい轉換がもたらされ、さらに甲武線(中央線)の開通といふ人の世の大きい異變は、つひに歴史あるこの峠を、忘却の彼方へと置き去りにしてしまつた。｣
また、【奥多摩渓谷】の著者として知られた岩根常太郎は、戦前の【健歩雑誌 ハイキング104号】(ハイキング社 昭和16年)所収「大菩薩の山々」の中で、｢笹子峠は今は訪者も尠ないうらぶれた場所となつてしまつて、舊幕時代に榮えた夢の名殘りも殘つてはゐない｣と表現した。
令和元年11月2日。誰もいない峠はひっそりと静まり返り、人待ち顔の道標が立っている。峠の歴史を知らなければ、ここも地形上の単なる小鞍部に過ぎない。
旧 笹子村側には馬や駕籠が休めそうな平地がある。一方、旧 大和村側には明治の末まであった茶店の跡地や石仏があるそうだ。いずれは古人のように峠越えをしてみたいと思いつつ、峠に別れを告げる。
今日はここから本格的な山歩きだ。
3、笹子雁ヶ腹摺山
時刻は10時40分。
峠から東へ短い急登をこなして一息つくと、あとは尾根通しに笹子雁ヶ腹摺山の山頂を目指す。
今年の長雨や台風の影響なのか葉の色は鮮やかさに欠けるが、晴天に映える彩り豊かな秋色の雑木林が眩しい。
高齢の御夫婦が下ってきたので登山道脇で待つと、温和そうな御主人は「ありがとう、ありがとう」と声をかけてくださり、後ろの奥様を振り返って「あわてないで」と気遣いの言葉をかけた。奥様は私に会釈して「お気をつけて」と優しい口調で挨拶してくださった。実に上品な慈愛に満ちた御夫婦で、人生の実りの秋はかくありたいものだ。
小さな送電線鉄塔が立つ所で、路は尾根路と巻き道に分かれる。秋の陽に銀色に輝く芒の穂にそっと顔を近づけると、8月の御盆に息を引き取った愛猫エリの体毛を彷彿させる感触が頬を撫でた。
晩秋の尾根路を辿り、やがて巨大な送電線鉄塔の脇を抜けると山頂に至る最後の急登となった。
メタリックに光り輝く身体を持ち、｢森の掃除屋さん｣とも呼ばれるセンチコガネを見かけ、じっくりと観察する。
生態系では分解者の地位にあり、動物の糞を分解する事から「糞虫」の名もあるが、そんな風に呼んでは失礼というものだ。
久しぶりの山の感触を楽しみながらゆっくり歩いたとはいえ、峠から丸2時間を要して12時40分、ようやく山頂に登り着いた。
(＊江戸時代、この一帯の山々は「笹子山」或いは「篠籠(ササゴ)山」と総称されていた。1358m峰を指す｢笹子ノ雁ヶ腹摺｣の呼称がいつから使われたか定かではないが、大菩薩連嶺内に幾つかある｢雁ヶ腹摺」｢雁ノ腹摺｣の山名地名が少なくとも江戸時代に遡る事は【甲斐国志】(松平定能 1814年)の記述から明らかになっている。
また、日川渓谷沿いの村からはこの山の山頂の形が富士山の山頂部と似た屋根型に見えた事から｢御殿｣、黒木の山であった事から｢黒嶽｣とも呼ばれていた。＊)
山頂には標識や標柱が幾つもあって賑やかだが、誰もいない。
この日は景色が少々霞みがかっていたが、甲府盆地を取り巻く山々の向こうには南アルプスと八ヶ岳の壮麗な山波が、恰も天空の城塞のように浮かんでいた。
空気が澄みきった冬晴れの日なら、素晴らしい大展望を楽しめそうだ。
ベンチに腰かけておにぎりを食べ、13時00分、腰を上げる。
4、米沢山
東に10分ほど進むと前方に展望が開けて、これから歩く山々が意外なほど重厚な山体を見せた。
この季節ならそろそろ下山にかかろうかという昼過ぎの時間から縦走するには、なかなか骨太な山々に見える。7ヶ月ぶりのいわばリハビリ登山のような今回、日没までに踏破できるのか少々不安になってしまったが、ここは頑固な中年男の意地を通して進む。
この先 いったいどこまで下らせるのかと愚痴の一つも言いたくなるほどの長い下りを経て、当然の事ながら大きな登り返しが待っていた。
ヤセ尾根や岩場を織り交ぜて変化に富んだ山路に時々息を切らしながらも、青空に映える秋色の木々に励まされ、時折覗く展望に見入りつつ進む。
途中の小ピークでは南の方に伐り開きがあったので寄り道すると、予期せぬ大展望に恵まれた。
南に御坂山地の主峰 黒岳(1793)、三ツ峠山(1785)、南東には道志山塊 最高峰の御正体山(1681)など山梨県東南部の山波が何ら遮るもの無く展開し、眩しい逆光に浮かぶ富士の姿は幻のようだ。足元には中央線沿線の僅かな平地が東西に長く伸びて、ここは郡界尾根随一の、南の展望台と言えるだろう。
笹子雁ヶ腹摺山-米沢山 間の山腹は中央自動車道、国道20号線、JR中央本線の3本の長いトンネルに貫かれているが、稜線の自然の豊かさはそれを微塵も感じさせない。
現在の山と高原地図(昭文社)に危険マークと急坂の表記があるのは山頂直下の岩場で、古いがしっかりとした鎖が付いていた。
資料によれば、西麓の大和村 観光課が新たなハイキングコースを開拓しようと登山道を整備したのは昭和49年との事。私が産まれる前年なので何やら親しみを感じる。
当時は各 登山雑誌に新コースとして紹介されたそうだが、昭和51年の山と高原地図には破線すら記載されておらず、同61年の地図では破線ルートとなっていた。
現在の地図では一般登山道だが、どうやら自分のようなひねくれた中年男や渋好みの静山派だけが歩いているようだ。
14時10分、米沢山 山頂に至る。
(※米沢山の名は、南麓の笹子に流下する米沢に由来する。北麓では｢矢平峰｣と呼ばれていた。｢ヤダイロ｣は前道志の倉岳山の東にも同名の山がある。※)
5、トクモリ・お坊山
前方にぽっこりとした双耳峰のようなお坊山を仰ぎながら自然林の尾根道を歩み、北麓で｢トクモリ｣と総称された幾つかの峰頭を越えていく。
陽も傾いてきた晩秋の山路の独り旅をじっくりと味わいながら歩いていくと、急に人影が見えて若い男女混成6人組と擦れ違った。装備や雰囲気から見て、私が学生時代に所属していた大学の山サークルのようなグループだろう。
下山まではまだまだ時間がかかる地味なコースの稜線上でこんな時間に人に出くわすとは、お互いに驚いたような状況だった。
お坊山の山頂直下からは北と西に大きく展望が開けて、甲府盆地の東側の山々と南大菩薩の山嶺を望み、振り返れば今日歩いてきた山々がはや懐かしく西陽の逆光に黒く蟠って、峠と山を越えて遥々歩いてきた実感に暫し浸る。
先程から、何度も鹿の鳴き声を聴いている。
「奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき」(猿丸太夫 古今和歌集 百人一首)の古歌の境地に誘われ、山に来て本当に良かったと思える瞬間は、まさにこんな時である。
お坊山(1430)の山頂は米沢山と同様に雑木林の中の慎ましやかな雰囲気が好ましい。
現在はここが｢お坊山｣という事になっているが昔は北麓で称された｢トクモリ｣の一峰であって、南麓の笹子から見上げたお坊山は、厳密には小鞍部を経た南東の1421Pにあたる。
このピークには現在｢東峰｣の標識が立っており、こちらも展望の無い落ち着いた雑木林の中にある。
6、大鹿峠の巨鹿伝説
時刻は15時20分。下山に向けて、まずは大鹿峠を目指す。
高度を峠まで一気に300m下げる下り一辺倒の道で、相変わらず見通しの良い広葉樹林が続くが落ち葉で道形不明瞭の箇所もあって、あまりハイカーに歩かれていない事がわかる。
前方には一昨年の10月に歩いた滝子山から大谷ヶ丸にかけての稜線を仰ぎつつ、落ち葉を踏みしめて無心にひた下る。峠が見えてきたところで東の斜面でガサガサと慌ただしい音が湧き、尻の白い毛を揺らして駆け下る鹿の後ろ姿が見えた。
(＊現在のお坊山・大鹿峠・大鹿山・金洞丸・大谷ヶ丸を含む大鹿川源流域一帯の山々の昔の総称は「大鹿山」で、これは遠い昔にこの山域に棲んでいたという伝説の大鹿に由来するとの事。
【北都留郡誌】(大正14年)や【東山梨郡誌】(大正5年)にも大鹿伝説が記されているが、俚伝の一つによれば、山に残された大きな足跡から ずば抜けた巨体を持つ三本脚の大鹿の存在が噂され、近郷の猟師たちが総力を挙げて追ったものの 射る事も捕らえる事もできなかったという。
南麓の笹子のみならず北麓の田野にも類似の伝説があって、登場人物や内容に相違はあれどいずれも巨体の鹿を狩るという点で共通しており、笹子の東の「初狩」、西の山向こうの「初鹿野」といったかつての村名も、大鹿をめぐる狩猟伝説に由来するという説もある。
また、南麓に「男鹿大明神」と呼ばれる場所があり、さらに鹿を擬人化した掛け軸が見つかっている事から、鹿の狩猟に纏わる伝説や信仰がこの地に根づいていた事、その背景として巨躯の大鹿が実在していた可能性を思うと、伝説好きの私にとって実に興味深いものがある。昔は男鹿山、雄鹿山と呼ばれたが、転化して大鹿山の漢字が宛てられ、源流域の1236m峰にその名が付されている。＊)
山の端に暮れゆく晩秋の夕陽に照らされた黄金色の大鹿峠に下り立つと、先程の鹿のものだろうか、大鹿川の谷間から大きな鳴き声が三度、山肌に響きわたった。
ひょっとしたら、声の主は遥か昔にこの山々に君臨していたというあの伝説の大鹿の血を引く末裔ではなかろうか……、甲州街道 笹子峠の裏街道であったこの峠の歴史情緒も相俟って、私は独り しみじみとした感傷に浸るのだった。
暫く佇んでいると、西から小さな野鳥たちが飛来して木々の梢に次々と止まり、峠は俄に賑やかになった。鳥たちもまた、峠を越えて巣に帰るのだろうか。
峠の風情を愛する私にとって、ここもまた実に印象深い峠となった。
7、天狗尾根から鳥居畑古戦場跡へ
時刻は間もなく16時、陽は山の端にかかっている。山中が暗くなるまで猶予はあと1時間も無いだろう。
地図を広げて下山ルートを検討する。
南東に下れば大鹿川沿いから道証地蔵を経て笹子へ、北西に下れば田野の景徳院近くから甲斐大和へ、となる。
東は谷沿いで先般の台風による影響が読めず暗くなるのが早い上に所要時間が長い。西は尾根上を下るのでおそらく安全で日没まで明るさが期待できそうだ。
土地勘があるのは笹子だが、西の田野に下ってみる事にした。
(＊古地図【笹子村】(明治21年)を見ると、裏街道は笹子の吉久保･原で笹子峠への街道を離れて大鹿川沿いに入り、道標の役割を兼ねていた道証地蔵(文政三年 1820年)を通って谷沿いを登り、大鹿峠に至る。
【甲斐国志】には「笹子峠より北に坂路あり 是 白野より初鹿野に越る道なり
…(中略)…峯數峯あり皆 大鹿山と云ふ」と記されている。＊)
靴紐を結び直して身支度を整え、16時、下山を開始する。
幾つかの案内書には「天狗尾根」との名称があるこの尾根に付けられた道形は明瞭で、迷いようもなく快調に下る。
山の端に沈みゆく夕陽が雑木林を茜色に染めあげて、晩秋の山歩きのフィナーレを飾るにふさわしい情景に暫し見とれて佇む。
やがてこの日 初めて人工林帯に入り、径路に忠実に下るとやや荒れた氷川神社の前を経て、田野の町を見下ろす斜面に出た。
時刻は間もなく17時、山々の向こうの空は残照の余韻を僅かに残すだけとなっていた。
民家の軒先を横切って下るが田野の集落に人影は無い。
武田勝頼らの墓がある景徳院はもう薄闇に閉ざされ、甲斐武田氏 最後の戦場となった｢鳥居畑古戦場跡｣の石碑も宵闇に紛れようとしていた。
戦国の武田哀史に黙祷を捧げ、すっかり暮れ落ちた夜道を一路、甲斐大和駅へと向かう。
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「丹沢を歩く会」コミュニティ
副管理人 S∞MЯK
モリカワ ショウゴ
(現 事務局長)
ユーザーネーム
YAMAP
☆S∞MЯK★エリゴンズ
ヤマレコ
smrktoraerigon
☆S∞MЯK★丹沢Λ@moyanotabikai
(ヤマレコには記録は残していません。
同好の士とのメッセージ等の連絡用に作りました。山ツイッターは始めたばかりです。
moyanotabikai(靄の旅会)は｢霧の旅会｣へのオマージュです。)
上記アプリやSNSに登録している方、よろしくお願い申し上げます。
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