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2018年01月16日16:05

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1‐02 西丹沢 世附川流域の神々と山神峠の謎

2018年1月2日(火)

新年初歩きは、西丹沢 世附川流域の謎の神々を訪ねる。
冬の清冽な山の気を頂き、氷雪輝く銀冠の富士を眺めながら歩く日帰りの山旅。終日 誰にも会わず、静山を満喫して夕陽射す中を下山中、突如として谷から湧いた怒号。続いて獣が格闘する音、やがて大気を震わせて谺したのは怒りとも哀しみともつかぬ咆哮。
丹沢の山々の懐の深さと厳しさを知る新年山行となった。

浅瀬入口バス停→浅瀬→水ノ木幹線林道→芦沢橋→「白旗社」「天獏魔王社」→ 三保山荘廃屋→悪沢山神沢右岸尾根→
山神峠「山神社」→椿丸→椿丸南ルート→浅瀬

画像は、
世附川左岸の天獏魔王社、
山神峠と山神社、
山神台座の菊花紋章と唐草模様



0、正月の西丹沢へ

年頭の山歩きは自分の原点である丹沢へ。静山志向はいよいよ高まり、正月は誰にも会わずにまっさらな気持ちで歩きたい。
丹沢で初詣なら相州大山の阿夫利神社が王道なのだろうが、人混みの喧騒は息苦しく耐え難い。
そこで、人間にはまず会う事のない西丹沢 世附川流域を訪ね、「白旗社」「天獏魔王社」の石祠と、山神峠の山神社に詣でる事にした。

1月2日 未明。始発電車に乗るつもりが出遅れてしまい、次発までは少し時間がある。5時。マンション2階の自室から、4階のオープンテラスへと月を眺めに行く。
楕円軌道を描いて地球の周りを公転する月は時折 地球に近づき、最近はスーパームーンとして持て囃されているが今日がちょうどその日にあたる。
テラスに出て未明の空を仰ぎ見ると、やや西空に傾いた満月が煌々と輝いて眩しい。
確かに普段の満月よりもその輝度を増しているようだ。
ふと、山の稜線を思い浮かべた。青白い月光に照らされて、天空の縁を歩く…。
特別な満月とわかっていたのになぜ元旦からの夜間山行を思い付かなかったのか、自分の迂闊さに臍を噛む。

電車を乗り継いで 7時20分、小田急線 新松田駅で降りて急いで改札を抜けたがバスの姿が無い。
そしてザックを背負った男たちの一団の「1時間待たなきゃダメだ」という会話が耳に届いた。
正月ダイヤは、始発が1時間繰り下げになっていたのだった。
前夜に富士急湘南バスのホームページを確認したのだが、見落としたのだろうか。
10人ほどが自分と同じく勘違いをしていて、寒空の下で長々と待たされる事になった。

8時25分。漸くやってきたバスは、総勢15人ほどのハイカーを乗せて出発。
新松田駅の駅舎から見えた富士は車窓からも大きく見え、一日好天が期待できる。



1、世附川の白旗社・天獏魔王社

玄倉で一人が降りて、丹沢湖に架かる永歳橋を渡った「浅瀬入口」のバス停で降りたのは自分だけだった。
他のハイカーは皆、畦ヶ丸か檜洞丸辺りだろうか、始発バスがいつもより1時間以上 遅かったので山行計画にも響いてくるはずだ。

9時20分。丹沢湖を取り巻く山並みを眺め、すぐに落合隧道(全長503m)に入る。
隧道を抜けると、前方の山間に銀冠の富士が大きな頭を覗かせている。何度も歩いているがここから見える事には初めて気付いた。
湖畔をひたすら西進して世附川左岸の浅瀬に着いたのは10時過ぎ。
ゲートを抜け、浅瀬橋を渡って大又沢林道を右に見送り、水ノ木幹線林道に入る。
椿丸南ルートの取り付きを過ぎて尚も西進すると林道の復旧工事がいまだ進行中だが 正月なので人影は無く、重機は路肩に蹲り、工事中を示す旗だけが忙しなく はためいていた。

平成22年9月の記録的な集中豪雨は世附川流域に甚大な被害をもたらし、土砂崩れや土石流によって水ノ木林道は各所で寸断された。
その傷痕は現在もなお完全には癒えていない。
しかしさすがは土建大国、工事の進捗は目覚ましく、数年前に目にした時には到底 修復は不可能と思われた崩壊地にも真新しい擁壁と立派な舗装路ができていた。
水ノ木林道は膨大な面積の国有林を擁する幹線林道なので力の入れ方が違うようだ。

以前は大きな流木が突き刺さり、水害の痕跡が生々しかった「芦沢橋」を渡り、まずは【白旗社】の石祠を訪ねる。
【白幡社】とする記述もあるが、川からは二段ほど高い林の中に鎮まるその祠を訪ねるのは2015年2月以来、3年ぶりだ。
祀られているのが「源氏ゆかりの神」で、新編相模国風土記稿(天保11年 1840年)に「村民私に祀る」とある以外、詳細はわからない。
祠は台座、直方体の本体、さらにその上に横長の自然石を載せた三段の造りで、本体の中に御神体の丸石が収まっている。
そして本体側面には「宝暦○年」(宝暦年間は1751年〜)の年号と「新山小奉行」4名の名前が刻まれている。
小田原藩の山林管理を司る役人の名前が連ねてあるのはこの種の祠としては異例で、村民が私的に祀ったとする風土記稿の記述と矛盾しているように思える。

当時この辺りは広域に亘って「世附山」と呼ばれ、甲州の平野村や駿州の柳島村などの入会山としても利用されており境界は明確ではなかった。
しかし次第に入会をめぐって小競り合いが起きるようになり、1703年(元禄16年)には相州 世附村が駿州の村々の入会を拒否して紛争に発展した。
また、1770年代(安永年間)には相州 小田原藩が世附村の山々を「新山御林」(当時、この山域を相州では新山(にいやま)、甲州側では影山と呼んでいた)に指定して、その影響力を強めた。

推測するに、小田原藩が直轄の御林に指定する前段階として、宝暦年間(1751年〜)の年号と役人たちの名前を祠に刻み、駿河や甲斐の村に対して世附山一帯の領有権を明確に示そうとしたのではないだろうか。

それは芦沢橋の下から世附川を対岸に渡った先の小高い平地にある【天獏魔王社】の石祠も同様で、造りは白旗社とほぼ同じであり、やはり「宝暦三年 」(1753年)、そして「新山小奉行」4名の名前が彫られている。
天獏魔王は往古から「水の神」あるいは「風の神」とされ、風水害を鎮める為の神として祀られたようだが、この祠からも政治的な意図を感じる。
元々 祀られていたものに後から役人の名前を刻んだのだろうか、今となってはわからない。

水量の少ない世附川を飛び石で渡渉し、その天獏魔王社を訪ねて人工林に分け入ると、数頭の鹿が走り去った。
鬱蒼とした人工林にも朝陽が射して梢から光が滴り、微かに吹く風に共鳴するかのように祠の上でゆらゆらと揺れる。

今は歴史から忘れ去られたかのようにひっそりと鎮座する祠だが、世附の山に14世紀の後醍醐天皇の陵墓があるとする口碑や「世附日影御陵説」に憑かれた小田原の和田久治氏が、この付近を天皇の陵墓の入口と信じこみ、私財を擲って昭和6年から数年に亘って発掘に没頭した地でもある。

戦前の【山と渓谷 第64号】(山と渓谷社)(昭和15年)の【丹澤・菰釣山附近】(清水長輝)には「これ(※後述する山神峠の山神社に刻まれた菊花紋章)が一時(※大正時代)後醍醐天皇に関するうわさを産んで、この祠(※山神峠の山神社)の下を掘るものが隨分あったと云ふ話だ、又アシ澤の二軒家の上にも紋章は無いが寶暦元年の祠(※白旗社・天獏魔王社)があつて、そこでは小田原の通稱 後醍醐さん なる某が私財を費して掘つている」と書かれている。
「吉野と足柄」(昭和14年)を著し、「後醍醐さん」と呼ばれた和田氏の執念は鬼気迫るものがあり、日々 山腹に地下道を掘り続けて血眼になって陵墓を探したという。

しかし世附山の帰属を巡る村々の争いも、天皇の陵墓探しの執念も、今はもう遠い歴史の彼方へと過ぎ去ったのだ。
暫し往時に思いを馳せて佇んでいた自分は、祠の背後の樹間から湧いた「ピィッ」という鹿の警戒鳴きで我に返った。


江戸時代末期に編纂された新編相模国風土記稿(天保11年 1840年)には「他村にては【白旗社】【天獏魔王社】両社を【足沢権現】と称す」とあり、近在の村にも知られた存在だったようだ。

後述するが当時の通行の歴史を紐解くと、現在の駿河小山から国境尾根を越えて世附川流域に下るには峰坂峠・アシ沢峠・世附峠を越える道があり、このうち現在の芦沢橋付近を通るのがアシ(※沢の位置からは芦が妥当と思うが「悪」を充てた地図もある)沢峠越えの道で、古地図にも径が記されている。
世附川に下りて左岸に渡り、悪沢出合から山神沢を遡って山神峠に至る径路も、明治25年の古地図には載っている。
その登りついた山神峠には異形の山神が鎮座し、白旗社や天獏魔王社と全く同様に宝暦の年号と奉行の名前が彫られ、さらに台座には十六花弁の菊花紋章が刻まれているのだ。

南の柳島村など現在の駿河小山方面、そして北の甲州 道志村や現在の山中湖南岸にあたる平野村とを行き来した人々が通った道筋に 、こうした祠が三つもあるのは決して偶然ではなく、やはり、駿河と甲斐の両方の山村に対して世附山が相州 小田原藩の支配下にあるという事を顕示したもののように思われる。



2、悪沢山神沢右岸尾根

芦沢橋の先には、前述の集中豪雨により山腹が大崩落して道が土砂に埋まり、ガードレールがまるで解れた糸屑のように垂れ下がっていた箇所があり、一昨年の夏に歩いた時には多数の作業員が復旧工事に従事していたのだが、今やすっかり整備されて 都市部の道路かと見紛うほどの立派な仕上がりになっていた。
もう二度とこの幹線林道を崩壊させてなるものか、という行政の強い決意を感じる。

世附川に流木が流れ込むのを阻止する赤いスリット堰堤があるのが悪沢出合で、2015年2月には古道を求めて悪沢・山神沢を遡行して山神峠を訪ねた。
沢の最後の詰めを誤ったので古道探索はまだ宿題として残っているが、今日は沢筋ではなく「山神山」(797)に至る右岸尾根を登る。

老朽化した吊り橋を避けて世附川の川原に下り、ここも飛び石で渡る。
かつて本州製紙の宿泊所だった三保山荘は廃墟のままで、母屋は荒廃しているがまだ倒壊は免れている。
その傍らを抜けて人工林の作業径路を辿ると、尾根上からこちらの様子を窺っていた鹿が軽快に跳ねて樹間に消えた。
11時半、尾根に取り付く。
この悪沢の右岸尾根は前回は下りに使ったが 沢側は急峻なのでやや左側を歩き、やがて山神沢出合に下る作業径路を見送ってからは尾根を直登する。
急登をこなしてやがて登りつくのは、軽トラなら進めそうな幅広の作業道の末端だ。
背後の世附川へとなだれ落ちる斜面は伐採跡で、その対岸にせりあがるのは不老山の西に世附峠、芦沢峠、峰坂峠を連ねる山体である。
周辺の伐採時に開かれたらしい作業道も今は使われていないのか、雑草に覆われはじめていた。

尾根を忠実に辿るのはまた別の機会として、今回も緩やかな作業道のお世話になる。
視野の隅に何かが動き、目を向けると鹿の親子が眼下の樹間を走り抜けて行った。

やがて西側の景色が開けると甲相国境尾根西部に連なる山々の向こうに銀冠の富士が大きい。
頭の部分しか見えないが 氷壁の亀裂や氷雪に刻まれた風紋が瞭然と際立ち、冷たく鋭くそして毅然として崇高なその姿には、信仰にも似た畏敬の念を抱かずにはいられない。
霊峰富士を遥拝しながら旅した古人の敬虔な祈りが、今 自分の胸にも打ち寄せてくるかのようだ。
この山域の御神木のような堂々たる樅の巨木を見上げて少し進むと一気の下りとなり、ひたすら下降して辿り着く狭い鞍部が 山神峠である。



3、幻の峠「山神峠」と山神社の謎

世附の山神峠は「山と高原地図」(昭文社)に記載が無く、「西丹沢登山詳細図」(吉備人出版)の範囲からも外れ、戦後のほとんどの地図に表示が無い、いわば「幻の峠」だ。

2015年2月に二週続けて訪問して以来 今回は3年ぶり三度目だが、やはりこの峠の山神は、後述する佐藤芝明氏が「まぼろしの山神」と表現したように、他の山神とは異質な雰囲気を漂わせている。

それは上質で堅牢な台座に刻まれた菊花紋章と唐草模様、そして卵形あるいはダルマ型ともいえる白い花崗岩の大きな御神体といった、この山神だけが持つ極めて顕著な特徴だけによるものではない。
山奥の狭隘なV字型の鞍部になぜこのように大きな山神が鎮座しているのか、という問いの背後に秘められた歴史の謎の深さによるものだ。
この山域には多数の峠があるが、東の二本杉峠に小御嶽大権現の小石碑がある(※自分は何度か歩いたが見落としている)以外には、山神や石仏は祀られていない。
それだけにこの山神峠の山神社の存在感は大きく、一際異彩を放つ。

【山と渓谷 第64号】(山と渓谷社 昭和15年)の【丹澤・菰釣山附近】(清水長輝)では山神の絵と山神社の全景の写真を載せ、山神について詳述している。
「祠の中には高さ二尺位の花崗岩の自然石があり前を四角く彫りとつて將棋形の木片がはいつている。その下に方二尺厚さ四寸許りの臺石があり正面に問題の十六枚菊花紋章と、その兩側に三ツ連つた唐草模様が彫られてある。又左側には新山小奉行、白澤五右衛門、木門文八、乘原梅右衛門、鈴木多門、右側に松尾市衞門の名が列記せられ、裏面には寶暦二年三月吉日と記されている。」(※宝暦2年は1752年)

歴史上、唯一 明確な史実は、この山神社が江戸時代末期に相模と甲斐の国境が確定した最後にして最大の裁判に於いて、この辺りが相模の領内である事を示す有力な証拠の一つと認められた事である。
このいわゆる「相甲国境紛争」は、天保12年(1841年)に甲州平野村の名主 勝之進が「国境押領出入」として相州と駿州の6つの村を幕府に告訴した事件だ。弘化4年(1847年)に幕府の裁定が出されるまで足掛け7年もの歳月を要した一大裁判であり、現在の神奈川県と山梨県、静岡県の県境が確定した歴史的な裁判でもあった。
訴状の中で原告の平野村は「山神峠の山神社は往古より世附村と相談して持ち合って勧請したものである」との旨を主張したが、世附村は「山神社には小田原藩 新山小奉行の名と宝暦年間の年号があり、相州領内である」とした。
これに対し、平野村は「奉行の名は紛争が起きてから証拠作りの為に新たに刻まれたものだ」と反論したが、幕府は「奉行の名前が刻まれている点について世附村の主張は信用できる」として平野村の主張を退けた。


自分の知る中でこの峠について書かれた最も古いものは【山と渓谷 第33号】(山と渓谷社 昭和9年)に山村民俗研究の大家 である加藤秀夫が寄稿した【水ノ木澤から菰釣シ山】の一節である。
そこには「… 山神澤の源頭、山神峠には菊花紋章附古碑(この地方に多い長慶天皇の傳説に関連せられている)のある事で有名で、(中略)…古く甲相国境をここに置かれたと云はれこの不自然な境界はしばしば両国の争の的となり問題の山相撲の分屬に就て、日本後記にその裁定の事が出ているが、主権は時々変わつたらしく論争の終結は弘化四年の事で、以来境界は現在の如く確定した。(中略)…
亦古く甲相の聯路であつたとも傳へ(道の変遷に就ては諸種の説有り)…(中略)…以前は峰坂峠(柳島峠)と世附峠の中間、アシ澤峠を降りワラ澤を溯り、山神に出て西腹を捲いて行つた。
今 僅かに俤を止めるのみで全くの廃道となつているがこれを横引横道と云つた。
」とある。

また、前述の【山と渓谷 第64号】(昭和15年)の清水長輝の記述には 「昔は小山から今のアシ澤峠を越しワラ澤に入りこの峠を越していくのが、水ノ木方面への唯一の交通路であつたやうだ。現在道は荒れて峠附近以外は全く無くなつているが、祠には新しい旗が幾つも奉納されてあるから参拝者は割合にあるらしい。」とある。

さらに、【日本山岳案内 1 丹澤山塊 道志山塊】(鐵道省山岳部 編)(博文館 昭和15年)には「山神澤は、山神峠から流下する澤であつて、山神峠は世附川の支澤 悪澤から入つて、山神澤を経て、本谷山神澤に降る所にある峠であつて、峠には菊花御紋章の附した古碑があるので有名なところで、長慶天皇に関連せる傳説を持つ峠である。」と書かれている。

長慶天皇は鎌倉幕府崩壊後の14世紀 南北朝時代、南朝の第3代として在位したとされる天皇で、退位後は南朝方への支持拡大を求めて各地を潜幸したとの説があり、関東一円の武将が北朝方に付く中で南朝方を支持して戦った山北の河村氏の領地が世附を含む西丹沢の山々を擁するこの地域だった事に鑑みれば、前述の後醍醐天皇にせよ、長慶天皇にせよ、「世附日影御陵説」が産まれる背景はあったと言えるだろう。
また、南北朝時代から約600年の歴史を有すると伝えられる「世附百万遍念仏」が
全国各地に存在する百万遍念仏の中でも形態が特異な奇習とされている事も、御陵説の背景にある。
(※もちろん御陵説については史実としては完全に否定されており、史料も根拠も無く、踏査すらされていない。ただ一方で、この山北町が「南朝悲史」の舞台の一つだった事は確かである。
以下、山北の「河村城」についてWikipediaから引用補足↓)
「河村城は平安時代末期に藤原秀郷の流れをくむ河村秀高によって築かれたとされる。
建武の新政・南北朝時代に入ると、河村氏は新田氏に協力して南朝方につき、北朝方の足利尊氏と対峙したといわれ、1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)から2年間、河村秀国・河村秀経らは新田義興・脇屋義治とともこの城に立てこもり、畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃を凌いだとされる。しかし、南原の戦いで敗れて落城し、河村一族の多くは討死、新田義興・脇屋義治は中川城を経て甲州に逃れたとされる。」

新田義興らは城ヶ尾峠を越えて甲州に落ち延びたとされているが、南朝悲史の一つの舞台となった西丹沢 世附の山と峠に纏わる歴史は、伝説や口碑も含めて実に興味深い。

さて、この山神峠を乗っ越して西の山腹を巻いていた古径は水ノ木に下り、その水ノ木からは織戸峠へ、さらに北へ大栂、菰釣山を経て甲州に繋がっており、山神研究家の佐藤芝明氏は「戦国時代から、関所を避けて 塩・金鉱石・海産物などの高価貴重品を運搬する闇ルートがあった。」という説を唱えている。
また、氏が駿州の柳島の古老から聞いたところによれば、この社は天皇の伝説に因んで「ダイゴ様」と呼ばれ、鉄砲の神様と弁財天も合祀されているという。
(古老の話や山神についての解釈は氏の著書【丹沢・桂秋山域の山の神々】(佐藤芝明)(中央公論事業出版 昭和62年)に詳しいが、他の古書や資料を考え合わせると内容に多少の疑義があるのでここでは割愛する。)

今回はこの山神社の周辺にも注目してみた。
神社の前には土に埋もれかけた石段がある。昔の写真には鳥居があるが、今は跡形も無い。少し下り、下から峠を眺めてみると鋭く切れ込んだV字型の地形であり、まさに越えるならここしかないという最低鞍部の底である。峠の小さな窓からは鋭角に切り取られた青空が覗く。
しかし石段を登り、山神の裏手に出ると様相は一変した。
西の水ノ木側はザレた急斜面で古径の痕跡は消失しているが展望は明るく開け、世附の山々の向こうに富士の頭が覗いている。
この峠に辿り着いた古人は山神に頭を垂れて手を合わせ、富士を望見して恭しく遥拝した事だろう。

大正時代から昭和の初めにかけて俄に近郷近在の人々による財宝発掘騒動が湧き起こったものの、戦前にして既に古の峠路が全くの廃道と化していた山神峠は、戦後はすっかり忘れ去られてしまったようだ。
【山と渓谷 第98号 峠特集】(山と渓谷社 昭和22年)には【世附川流域の峠】(鈴木經一)としてこの山域の十指に余る峠が紹介されているが、当然あって然るべき山神峠が書かれていない。
これが「幻の峠」たる所以である。

(尤も、世附の山域を隈無く歩いてネットではs-okさんとして丹沢秘境マニアの間で知られていた岡澤重男氏の手による 【誰も知らない丹沢】(風人社)(2006年)の刊行によって、近年はバリエーションルート愛好家(自分もその一人だが…)の一部には知られるようになった。)

丹沢山塊中で最も謎に満ちた歴史を秘めながら静謐を極めた辺境に鎮まるこの山神峠を、自分はこれからも何度も訪ねるだろう。
あらためて山神に御挨拶したが、心配なのは壊れかけた建屋の状態である。なにしろ大きく壊れているが絶妙な均衡を保っているようにも見えて、とにかく一人ではどうにも手の施しようがない。
建屋の歪みの影響なのか、御神体の上に帽子のように載っていた大石も依然として落ちたままなので、修復したいのだが何とかならないものだろうか。



4、日だまりの椿丸へ

峠から北への登り返しは意外と辛く、また862P(古称「大杉」) から北東に続くなだらかな尾根道は単調で距離が長い。
椿丸や織戸峠に至るこの安全な尾根道も、古くは径路として歩かれていたと推測される。
北の樹間には甲相国境尾根が長大な壁となって立ちはだかり、南に目を移せば遠く連なるのは箱根の山々だろうか。
落ち葉の絨毯には木々と自分の影が長く伸びて、太陽がやや西に傾いてきた事に気付く。
北に大栂と菰釣山を見ながら僅かな登降を繰り返し、やがて椿丸(902)山頂の北に出た。

山頂北からの丹沢山塊の展望は、まさに山塊中 屈指の素晴らしさだ。
丹沢の好展望地は枚挙に暇が無いが、いずれも「他の山地山塊を含む広大な山岳展望」そして「海や市街地をも包含する大展望」である。
しかしここからの展望は、「西丹沢の辺境から遠望する【丹沢山塊中枢部の全貌】」であり、それでも視野に収まらない東丹沢や駿相国境、甲相国境の幾多の山々の事を思えば「丹沢山塊」がいかに膨大な範囲であるかを心底 実感できるのだ。
新年正月に相応しい清らかな静寂の山中に佇み、恰も遠くの額に掲げられた壮大な静物画のような山岳展望に見入りつつ、遅い昼食を取る。



5、獣の戦い

14時半。もう今日は織戸峠に寄る時間は無い。
椿丸の山頂を踏み、詳細図の「椿丸南ルート」に入る。分岐して法行沢林道に下る径もあるがその後の大又沢林道歩きが長くて退屈なので、今回は南ルートを忠実に辿る事にした。

人工林が多い尾根道を進んでひたすら登降を繰り返すのみだが、ただ無心に、あるいは思索を廻らせながら歩くには良い静かなルートだ。
838P下のカヤトに立ち寄り、展望を眺めながらヤッホーを何度か叫んで反響を楽しんだ以外は特に寄り道もせず、 795P 西を過ぎればあとは自然林の気持ち良い径となる。

柔らかな夕陽に照らされた木々と落ち葉の絨毯は澄みきった蒼穹を背景に黄銅色に輝き、真冬の冷気の中に仄かな温気がふんわりと立ち昇るかのようだ。
780P を過ぎるとあとは尾根を南東に下るだけ、特に危険箇所は無い。

西陽射す右手の斜面からガサガサと音が聴こえ、目を凝らすと遠目にもふさふさした茶色い毛並みのアナグマが落ち葉に顔を突っこみながら歩き回っていた。
一心不乱に餌の昆虫を探すその胴長短足の愛らしい姿に心和む。

それは、唐突に起きた。
アナグマが視界から消えるまで見守って、歩き出そうとした矢先だった。
どこかから「クウァン」という鳴き声が聴こえた。最初に思い浮かんだのは猟犬だった。一瞬、犬の鳴き声のようにも思えたからだ。
ハンターが山に入っていてそれで犬が吠えて……しかし、次に湧いたのは心胆寒からしめる重低音の怒号だった。
左手の、既に日陰に入り 青く冷たい翳りを帯びはじめた笹小屋沢の側からである。

思わず足を止めて緊張しながら様子を窺うと、束の間の静寂を経て、二頭の獣が「グガッ」「ガフッ」と唸り声を上げながら戦う音が聴こえてきた。
一頭が逃げ、もう一頭が追い縋っているのだろうか、場所を移動しながらの激しい戦闘が繰り広げられている。
戯れや交尾などではない。
威嚇の唸りと怒号を発しながらの掴み合いと噛み合いが容易に想像される生々しい音が、焦げるような熱気を孕んで断続的に響き、距離はそう遠くないはずだがそれが沢筋からなのか対岸の斜面からなのかの見当がつかない。

縺れ合い、あるいは敗走と追跡に移った2頭が斜面を登ってこちらに突進してきたら危険極まりない。
まずは人間の存在を知らせるべく、大声を出しながら柏手を打ち、クマ鈴を取り出して振った。
しかし戦闘に夢中で聴こえていないのか、激しく捩れ合う怒号は一向に収まらない。

2年前の春に椿丸・織戸峠を歩いた時、浅瀬橋でこの山域の渓流釣りの管理をしている漁協の男性から掛けられた言葉を思い出した。
「 この辺りはクマの巣だから気を付けて!私はちょうどこの林道でクマに出くわした事があってね。小さいクマだったけど、もうちょっと大きいのがいるかも。鈴とか笛で用心しなよ。」

手には用心棒代わりにと朝拾った木刀並みの頑丈な枝を持っている。
枯れ枝ではなく生木で、剛性もある。
しかし一体どうすればいいのか。
クマやイノシシが近くで戦っていたらどうするかは山の教科書には載っていない。無視して静かに立ち去るにしても、万一 2頭が斜面を駆け上がって来て自分がちょうどそこにいたら万事休すだ。

すると次の刹那、暮れなずむ山肌を震わせるような野太く掠れた咆哮が轟然と湧き上がった。
それは辛くも勝利を得た雄叫びのようにも、酷い手傷を負わされた悲痛な叫びのようにも取れる、悽愴の気に満ちた凄まじい咆哮だった。最後は悲鳴のような高音を混ぜて余韻を引き、自分は青ざめてその場にただ凝然と立ち竦んだ。
そして次の瞬間、咆哮の衝撃に弾かれたように首から下げた金属の笛を手に取り、口に咥えて全力で一回、思いっきり吹き鳴らした。
想像以上にけたたましい音が鳴り響き、山は一瞬で静かになった。
耳を澄ましても、もう何も聴こえない。

イノシシはちょうど冬が発情期にあたり、雌をめぐって雄同士が戦う事があるという。普通はクマよりはイノシシのほうが遭遇確率は遥かに高いだろうが、椿丸は渓流釣りの管理人の言を借りれば「クマの巣」であり、南面には「熊ノ沢」「熊ノ沢日影沢」「小熊沢」が流下している。
クマは各個体の行動範囲が広い為に行動圏は重なっており、厳密には雌同士に排他性が認められるものの、一般に相互の排他性は無いという。
しかし、不意の接近遭遇ならどうなるかわからない。
丹沢は温暖な気候で雪が少ない為、冬眠しない個体もいるそうだが一般的には冬眠前で脂肪を蓄えなければならず、餌を求めて気が立っているはずだ。
ただでさえ慢性的に堅果類が不足して生息環境の厳しい丹沢である。

この後は獣たちの動向に神経を使いながらの、やや焦り気味の下山となる。
それでも、残照に映える大平や大嵐(大出山)の佇まいが心を少し落ち着かせてくれた。

最後の急斜面を滑り落ちるように世附川左岸の林道に下り立ったのは日没が迫る16時半。
見上げる山の端に僅かな残照が揺れていた。

あの咆哮は、いったい何だったのだろうか。これまでに山で聴いた事がある動物の激しい悲鳴は、あまり思い出したくもないが、ハンターによる数発の銃声の後に湧いた鹿の断末魔の叫びだ。何度も何度も叫ぶその声は、耳を覆いたくなるほどだった。

クマにせよ、イノシシにせよ、まさかいきなり殺し合うほどの戦いはしまい。
笛を吹いたのは自身の安全の為と言い訳してみても獣にとっては要らざる介入だっただろう。しかし、時ならぬ笛の音に驚いて、どちらも山中に逃れたと思いたい。

目論み通り誰にも会わない山旅ができたが、最後には山で動物たちが生き抜く事の厳しさを実感した出来事だった。
今回は10頭近い鹿を見かけ、その中には親子もいた。丹沢では、増えすぎた鹿を減らす為の容赦ない殺戮が続いている。春先までは鹿にとって過酷な猟期が続く。
今日 見事な跳躍を見せてくれた円らな瞳の鹿が、そして母の後ろを歩いていた子鹿が、明日にはハンターの銃弾に撃ち抜かれて倒れるかもしれないのだ。

浅瀬橋で着替え、朝来た道を時折 走りながら戻る。5時台のバスに乗りそびれると、最終バスまで2時間も待たなければならない。
日は忽ち暮れ落ちて、傍らの湖面は蒼暗い。
落合隧道の手前で振り返ると、 富士はもう荘厳な白銀を闇に閉ざし、黒々とした影絵となって西の空に貼りついていた。


西丹沢の辺境 山神峠・椿丸 【世附川流域の神々の謎と伝説】(写真55枚)
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※関連日記※

2015年2月7日
【西丹沢最奥 山神峠の神様】
(江戸時代末期、最大にして最後の相甲国境紛争の舞台となった西丹沢 世附の「山神峠」に、台座に菊花紋章が刻まれた異形の山神を訪ねる)
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2015年2月14日
【西丹沢の謎の神々を巡る旅】
(西丹沢の辺境 世附川流域に鎮座する謎の祠を訪ね、「山神峠」への古道を探索すべく悪沢 山神沢を遡行する)
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2016年2月21日
【荒廃した丹沢に愛と優しさを…クマとシカと人間と。】
(鹿の管理捕獲中に相次いで殺された絶滅危惧種のツキノワグマと、増えすぎたが故に殺戮の嵐に晒されるニホンジカ。病める山塊「丹沢」を憂う)
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2016年3月27日
【西丹沢の辺境 椿丸 織戸峠】
(登山地図 空白域の世附の山々。菰釣山の南の前衛「椿丸」と、数条の古道が交錯する「織戸峠」を訪ねる)
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2016年8月25日
丹沢湖から水ノ木林道を経て山中湖へ
(広大な国有林を擁する水ノ木幹線林道を辿って水ノ木の山神社に詣で、相甲国境の「切通峠」を越えて山中湖に下る晩夏の旅)
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副管理人 S∞MЯK
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(現 事務局長)

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(山と峠に纏わる歴史、伝説、石造物等に興味をお持ちの同好の士からメッセージなどいただけるとうれしいです)
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