mixiユーザー(id:1277267)

2019年12月06日12:22

335 view

明治維新に関わった吉田松陰と高杉晋作について

泉秀樹氏の「幕末維新、なるほど人物事典」PHP文庫を読み、吉田松陰と高杉晋作の影響を受け、あこがれて、現代の言動を続けています。この書は幕末維新当時の人物の遍歴を詳しく、調べているように思います。私はその中で、時代を動かした吉田松陰と高杉晋作の言動の影響を強く受けています。

1830年に、吉田松陰は下級武士の次男として生まれ、長州藩で山鹿流軍学の師範を務めていた伯父の吉田家の養子となり、黒船が来航する世界の大きな変化の中で、1854年、アメリカへの密航を企てて拒まれ、幕府から長州・萩への蟄居を命じられ、そこで、伯父の玉木家が開いていた松下村塾を継いで、処刑されるまで長州藩で、高杉晋作などの維新に関わった人物を育てることになった。

長州藩で直目付に登用されていた高杉家の晋作は1862年、幕府使節の随行員として清国に渡ることになり、途中の長崎で、アメリカでは南北戦争で奴隷解放を掲げた北軍が勝利したという「平等」の力を知ったようです。清国では、清国が西洋人の「使用人」としてのみじめな植民地である姿を観て帰国したようです。

この貴重な体験から、高杉晋作は長崎に帰ってくると同時に、オランダ船を購入する契約を独断で決めたが藩に断られる。ところが高杉晋作は英国商人のグラバーから軍艦を独断で買い取って下関に乗り付け、勤王討幕の為と強引に説得してしまいます。その後、1863年6月に四民平等の奇兵隊の創設をした後、1867年4月に肺結核によって、27歳8か月と言う若さでこの世を去っています。

訴えたいのは、吉田松陰は進歩した外国を知るために、渡航しようとして、幕府に処刑され、高杉晋作は改革に必要なことを実行するという精神を貫いたことです。ところが現代、言動は自由なのに、何をすべきかがハッキリしていない。今の時点では、改革に成功したモデルになる国が多くないためだと思います。

41 15

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する