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2018年12月13日23:32

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【艦これ】進水日ダイアリー2018【12/13】

トラブルには事欠かない本日12/13は海防艦占守の進水日。
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誕生日おめでとう、占守。

史実の占守をざっくりと。
占守型海防艦の1番艦で玉造船所の生まれ。
海防艦とは北方警備を目的として開発された艦級で在り、その為の装備も備えていたが、結果として太平洋戦争終盤まで東南アジア方面で活動した。
艦内が暑くてそれはそれは大変だったという。
竣工直後に第2遣支艦隊に編入され、東南アジア方面に進出した。
仏印進駐に伴い、ベトナム方面での海岸警備任務や、フランス極東艦隊の行動を監視した。
新編された南遣艦隊に編入され、シンガポール進駐第一陣の一隻となった。
戦争中は文字通り休むヒマもなく船団護衛に投入され続け、大小数え切れない数の船団を護った。
しかし、護衛艦が当艦1隻のみという立案者の頭を疑うレベルの無茶振りをされる事も在り、残念ながら多くの被害を出してしまっている。
地獄のオルモック輸送(多号作戦)の2次と4次に参加。
第2次作戦では旗艦を務め、陸軍四式戦闘機隊による決死の上空援護と巧妙な煙幕戦法の甲斐もあってほぼ揚陸を完遂させている。
第4次作戦では直接護衛を担当。
しかし、受け入れ側の大発準備不足というまさかの事態によって、地点に辿り着いたはいいが遅々として揚陸が進まず、更には、制空権・制海権は完全に失われており、夜間は不眠不休の対魚雷艇戦闘、昼間は過酷な対空戦闘と悪戦苦闘を強いられた。
その結果、人員と軽火器類しか揚陸出来ず、重火器や食糧弾薬類の大半が失われ、大失敗に終わった。
マニラ湾口にて浮上潜水艦(アメリカ潜水艦ハッド)を発見し攻撃に向かうも、逆に雷撃を受け艦首を破損した。
応急修理をした後、タモ35船団の護衛の任に就く。
最早、損傷した艦ですら護衛として使わねばならない戦況であったのだ。
舞鶴工廠で修理後、ソ連参戦に備えて稚内へ移動する。
千島方面の陸軍部隊を本土決戦に備えての引き上げ作戦と警備が目的で在り、やっと本来の任地に向かえる事になった。
そして稚内港に入港し終戦を迎える。
しかし、戦いは終わらなかった。
ソ連軍が押し寄せる前に、樺太在住の日本人の引き上げねばらならなかったのだ。
小さな海防艦には800人程度しか乗れず、ついに大泊市外にソ連軍が押し寄せこれ以上は無理となった最後の出港時もまだ、桟橋の上は人波で一杯で在った。
婦女子を優先して乗艦させた為、親と子、夫と妻が泣き叫んで別れを告げる絶叫が渦巻く中、断腸の思いで出航するほか無く、そして、これが今生の別れとなってしまった人々も多かったという。
その後、復員輸送に従事し、暁型駆逐艦響等と共に賠償艦としてソ連に引き渡された。
ソ連海軍では護衛艦に類別され「EK-31」との名を与えられ、その後、通報船へ類別変更され「PS-25」と改名された。
更に工作船に改造され「PM-74」とさらに改名された後に退役し、解体されたという。

起工 1938年11月29日
進水 1939年12月13日
竣工 1940年6月30日
除籍 1945年10月5日(日本海軍)
1947年7月5日(復員庁)
最後 1947年7月5日、ソ連に引渡し
その後 1959年5月16日、除籍・解体

詳しくはwikiでも読んどくれ。

艦これでの占守。
新艦種「海防艦」に属する艦娘。
対潜攻撃のエキスパートで在り、逆にそれ以外は全くの苦手。
生存艦だからか運の初期値が高いが、現状、それを活かす手段は無いw
ガングートとベールヌイ(響)との会話が実装される事を願う。
しむしゅしゅしゅ〜。
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コメント

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