mixiユーザー(id:12593070)

2020年07月04日06:48

212 view

松永店長、現役を続ける義務があるからね!

■松永店長、現役を続ける義務があるからね!

森選手や高橋選手や三浦選手に、茅ヶ崎の宮田自転車の工場内にある、宮田レーシングのロッカールームで初めて紹介されたのが、ほっそりとした松永選手だった。取材に行って一瞬のことだった。全日本実業団のレース会場で会ったことも記憶しているが、買い物に行った帰りで、頼まれた白あんぱんなどを買ってきて配っていた。

集団の中で走っている姿もちらほら見かけたが、森選手、高橋選手、三浦選手、鈴木選手、安原選手などがスポットライトを浴びていたので、目立つ存在ではなかったが、しっかり集団キープしていたのははっきり覚えている。

次の出会いはロードレースではなく、宮田の実用車のフレームの溶接部門から、スポーツ車の溶接部門への移籍を希望したが叶わず、会社を辞めて、アマンダスポーツで修行を始めた頃だった。千葉洋三さんには、当時お弟子さんみたいな人がいて、レジンやカーボンを成型してパーツを作っている人がいた。その人がいなくなって。工房は千葉さんと奥さんの2人で運営されていた。

奥様はミチホさんといい、サイクリストでアマンダのバイクに乗っていたと思う。穂高の尾根道を背負子にバイクを背負って来たので印象に残っている。しっかりしている人で、ものづくりに集中したい千葉さんをサポートしていた。自転車雑誌の記者の世界では、千葉さんはレーシングヨット作り、海洋カヌー作り、イシワタのクロモリチューブ製造に関わり、荻窪のオーダーショップのパターソンズハウスで働いたり、写真嫌いとか、いろいろな噂があって、取材を引き受けてくれないと言われていた。

僕は工房を訪れては、自転車ではなく、ドイツ製の折り畳のカヌーのことやレーシングヨット、茅ヶ崎の沖でやっていた海洋カヌーの実験、8人乗りのボートのことばかり話していた。実は、友達に戸田漕艇場を拠点にしている、オリンピアンのボート選手がいて、カーボンやグラスファイバーボートの製作で困っていたので、パドルをオーダーで作ってくれるところを探していたのだ。東レや三菱の高弾性カーボンチューブで製作できそうだった。

サイクル&カヌーという店名の前に付く文言が気になって、昔からアマンダスポーツの工房に行っていたのだ。小金井から荒川に移って、床屋さんを改造した工房へ移ってから、初めてクロモリのピストを発注したのだ。1000mTT用のファニーバイクだ。フロント26インチ、リヤ700Cのモデルだ。東ドイツのチームTT用のファニーバイクは、車間距離を詰めるために、前輪24インチで、後輪は700Cだった。これを参考にして作ってもらうために、オリンピックや世界選の写真を預けた。

3ヶ月後に受け取りに行くと、どこにも無いので、奥にでも置いてあるのだろうと思った。いやいや、そこにぶら下がっているよと言われてびっくり。自衛隊のジープみたいな緑色に塗られた、前後700Cのピストフレームだった。注文はシルバーのファニーバイクだ。

千葉さんに作り直してもらって、エリック・ハイデンように開発されたクロモリのエアロチューブで組まれたファニーバイクは出来上がってきた。ハイデンは冬季五輪のスケートの短距離から中距離まで5冠を制したスーパーチャンピオンで、セブンイレブンのプロサイクリングチームで走っていたのだ。

僕は26歳でピストレースへのチャレンジを止めたので、カナダのナショナルチームで活躍していたケビン選手に、アマンダ製のファニーバイクと、プロトンのピストやカーボンディスクや車輪を譲って、カナダ選手権でその機材で優勝したという。

そのファニーバイク事件の時には、すでに松永くんはアマンダスポーツでの修行が始まっていた。でも、フレームの製造のメインは千葉さんだった。ミチホさんから入社の経緯を聞いたことがある。松永くんが訪ねてきて、仕事を覚えたいので働かせてくださいと、千葉さんにお願いしたらしい。

ミチホさんは、前の職人さんが入った時に、気を使ったので嫌だったらしい。でも千葉さんはそういうことに気がつかず。ミー坊可愛そうだから雇っておやりよと言ったのだそうだ。仕方がないので、試用期間を設定してと、千葉さんと約束して期間限定で受け入れたそうなのだ。

ミチホさんは、千葉さんも頑固一徹なのだそうだが、松永くんも相当頑固ものだったと、当時の感想を話してくれた。千葉さんがカーボンディスクホイール作りに取り掛かった頃から、松永くんがカーボンフレーム作りを任されていた。

この頃、千葉さんにカーボンフレームの可能性を、行くたびに語られていた。当時のルック、TVT、アラン、ビチューのカーボンフレームやカーボンフロントフォークは、はしなやかさが注目されていた。しなやかじゃ無いのがいい、今作れる、できる限り高い剛性のカーボンフレームを作ってもらうことにした。スケルトンは今まで乗って来たキヨ宮沢と同じにして、丹下のナンバー2を上回る剛性にしてもらった。クロモリラグの肉厚もあげてもらい、溶接部分はロー材を盛り上げてフィレット仕上げで補強してもらった。

これを半年くらい使って、葛西臨海公園でのクリテリウムを走っていた。イタリアで、ヴィットーレジャン二、コロンブス、フィール、ピレリ、チネリ、グランチクリズモなどの取材活動をする時に持ち込んで、ロマーノのホテルを拠点にして、工業地帯の北イタリアで走っていた。チネリのレーザーを作っている、アンドレア・ペゼンティと一緒に走った時に、お互いのバイクを乗り換えて走った時に、ペゼンティが気に入ってしまい。ペゼンティのMSレーザーと交換することになったのだ。工房内の塗装工場でメタル入りのピンク色に塗り替えて乗っていた。

松永くんは、アメリカの工房やファクトリーへの就職を探しに放浪したりしていた時期で、荒川のお寿司屋さんで握りをつまみながら夢を語り合っていた。海外の工房で働くのは相当難しいようだ。当然、僕のバイクは松永くんと相談して作ってもらっていた。寸法も角度もピシッと作ってもらえますからね。その中の1台をイタリアに持って行ったわけだ。それで、ペゼンティにカーボンフレームを作れる日本人がいることを知ってもらえたのだ。

アマンダスポーツを止めていた彼が、イタリアで働けないか、ロスアート、デローザ、メルクス、ペテネラ、マジー、ジャン二モッタなどの工房を訪ねて歩いたが、イタリアはその頃不景気で。受け入れは無理だと言われた。ペゼンティの工房を紹介してくれたのが、貿易をやっていた桑原さんでした。ペゼンティの工房は、グレリスと言うブランドで事業を始めましたが、スポンサーと仲違いして、工房を一旦閉鎖して、再開したばっかりのバットタイミングでした。

それでもペゼンティに食い下がってみました。2回目の訪問で日本人を受け入れてくれないかと切り出しました。移転したばかりの工房の社長室で、困り顔になってしまいました。桑さんもプッシュしてくれましたけど、やっぱり困り顔です。これは会社的には深刻な経済状況だったのでしょう。無理かもなと思いました。1週間以上ロマーノに滞在して、毎日顔を出して、ダメだよねと繰り返しました。うんとは言ってくれないけど、ダメだとも言いません。

アンドレアは、桑さんと似ているな〜と思いました。ノーと言えない人なのです。ちょうどスポンサーともめている時に、僕はイタリアでUCI公認のプロチームを立ち上げて、工業団地に移転したばかりの工房に、プロチームの拠点として、スペースを貸してもらえることになりました。ランチアやレンタカー屋さんのスポンサードを探してきてくれました。イタリアの国際レース参加のために、スタッフを貸してくれました。イタリア中の移動の道案内をしてくれました。

イタリアで働くために必要なことを調べに、イタリア大使館のビザ申請の事務局へ聞きに行くと、職人では受け入れは不可能だと言われました。高度な技術者なら可能性はあるという。申請書類をもらって、話を進めにイタリアに行きました。取材もチームの運営にも関係ないので、アンドレアは、何できたのという感じでした。日本人の職人を受け入れてくれないかと話すと、またその話かという呆れ顔でした。前向きに検討してみるというので、その文章を松永くん宛にファックスしてもらいました。

アンドレアは、ロマーノの商工会議所に日本人の受け入れを打診して、書類を取り寄せて、カーボンフレームの製造アドバイザーと記入していました。受け入れ先のアパートも探してくれました。やっと本気になって動いてくれました。ファビオという一番手の職人と、グラッチアという2番手の職人がいるので、給料の件は期待しないでくれと言われた。とりあえずロードレーサーの本場に、不法滞在でなくポジションを得られそうなので、良しとしよう。

イタリアの工房に行けそうだ。いろいろ苦労はあったろうが、ロマーノの工房でカーボンフレームを製作して、ミラノショーでカーボンフレームはデビューした。帰国後は厚木で工房兼ショップを運営したり、イタリアに行ったり、浅田選手の運営する育成チームをサポートしたり、プロトライアスリートをサポートしていた。筑波に行って若くて可愛いお嫁さんをもらうことになってご挨拶に来たわよと、ミチホさんはとっても喜んでいたが、頑固だからね〜、大丈夫でしょうかと心配もしていた。一回り以上違うんだからね。

松永くんは40歳代で結婚して、女の子も3人いて、大学を卒業するまでは面倒見なくちゃいけなくなりました。みちこさんは野球チームくらい子供が欲しかったと言っていました。筑波でサイクルショップ兼工房を開いて、自転車業界40年以上という経験を持っている。松永の名前でサイクルショップをやっている以上、最前線で頑張ってもらうしか無いよね。

サイクルショップのお客さんで、サンデーライドのマドンナだったみちこさんを、お嫁さんにしたんだから、数人の男性のお客さんが減りましたね。清志郎さんのNHKの番組に一緒に出て3人で走ったり。日光街道を走るシーンを曲にしてもらって、ロックンロール研究所のスタジオで収録して、CDに焼いて結婚式にプレゼントされていました。

そして、亡くなってしまった桑原さんは、僕と同い年でしたが、松永くんのことを心配して、厚木で暮らしていたけど、雇われ店長を止めて浪人状態でしたから、声をかけてやってくれとしょっちゅう言われていました。厚木のラーメンのぞみで会うたびに、頼むぞと言われていました。

車の輸出の件で茨城に来るとショップに立ち寄っていました。自分だって楽な仕事じゃ無いのに、浅田選手の立ち上げた会社のサポート、松永店長のショップの運営なども心配で、気を使っていました。優しいだけにノーと言えない人でした。僕も桑さんの優しさに甘えた一人ですが、だから、桑さんの要望にはできるだけ応えました。

ちょっと妖精チックな桑さんは、これで儲けてやろうという私心が無いので、シンガポールの巨大ショッピングモールのオーナーに気に入られて、日本のテナントを探して欲しいと頼まれて、金にもならない仕事なのに、ジョイント役として、日本の投資家を探したり、テナントを探して、海外出店をサポートして、絶大な信頼を寄せられていましました。

海外の企業はトップの素早い判断が売りですから、日本に拠点を作りたいというのも、急な話でした。桑さんに相談されて、建設業界のツテを伝わって、物件探しと、ビルやマンションの買収などのお手伝いもしました。話しがでかすぎて、半信半疑でやったこともありましたが、忙しくしていても、いつも松永くんをサポートしてやってくれが彼の口癖でした。

その頃は、コンサルティング会社を休職して、僕自身も、4年間のUCIプロチームのマネージメントで疲れ果てて、順天堂大学のトライアスロン部のアドバイザー、筑波大学のトライアスロン部のスーパーバイザー、浅田監督のエキップのチーム運営会社への移行、雑誌でメンテ本作り、トライアスロンナショナルチームのサポート。エプソン、ニデック、NTTチームとのコーチとメカニック契約があって、バタバタの生活をしていました。

筑波へ通うようになって7年目に、松永くんを筑波に連れて行って、ショップ兼工房をやるように勧めました。だってカーボンフレームを作れる数少ない職人なんだから、元気に走って、フレームを作って、自転車好きの人たちを相手に、生きて行くしか無いんだからね。

プログラムの書き換えとかも自分でやっていたくらいだから、電子機器は苦手じゃ無いみたいだけど。しっかりしたメカニックが育っているんだから、任せることは任せて、お客さんとのやりとりを楽しむつもりで頑張ってください。引退なんか考えている場合じゃありませんよ。可愛い子供達のことをサポートするためにもう一踏ん張りですよ。


6 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する