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2020年04月09日04:40

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イタリアこそ義理人情の国だ!

■イタリアこそ義理人情の国だ!

いい意味でも悪い意味でもコネクションがないと物事が進まないのがイタリアの常なのだ。その典型的な言葉がアミーゴだ。やあ兄弟ってな調子のいいやつの言葉は信用できないこともあるけど、確かに日本人はこの言葉にコロリと騙されている人もいる。

僕はまず、血中イタリア人濃度の高いおっさんと日本の東京で知り合った。同い年の人で、イタリア人からは「ミツ」と呼ばれていた。車の輸出の仕事をやっていたのだが、彼の突破力、破壊力は抜群だった。中東や南アフリカやフィリピンやベトナムのバイヤーを相手に、平気で飛び込み営業をしては、販売ルートを開拓していた。

そんな彼の仕事とは直接関係の無い、イタリアで活動していて偶然出会ったのがアンドレア・ペゼンティやパウロ・グエルチョッティーだった。ペゼンティは共同経営車と工房を起こして、グレリスというブランドでスタートしたばかりだった。

ミツは日本へ輸入するルートを作って売り始めたが、グレリスなんてブランドがあることを日本の自転車乗りは知らなかった。それを作っているペゼンティが何者かも知られていなかった。ミツも実は業界に詳しくはなかったので、今までの彼の仕事の経歴を知らなかった。

だけど、素人同然のミツはグレリスのバイクを見て、何かを感じたのだろう。自分で乗って見てこのバイクはよく進むと確信を得たみたいだ。とにかく乗って見てくれと持ち込んで来た。コロンブスのチューブで組まれたフレームは本当によく進んだ、踏み出しも圧倒的に軽い。

すぐにオーダーすると間違いが起こった。違うモデルだし、しかもフロントフォークはなんと26インチホイール用がセットされて送られてきた。イタリアの工房ならではのミスなのか、箱を開けて点検してがっかりした。ペイントもまるで違っていたのだ。

もう一台製作して送ってもらうことになったが、もう信用はできなくなっていた。でも、グレリスの試乗バイクは素晴らしかった。ところが大事件がイタリアで起こっていた。ペゼンティと共同経営者が仲違いしてブランドを止めるというのだ。

経済的な後ろ盾を失ったペゼンティは経済的な窮地に立って、工房をロマーノの工業団地へ移転して、今度はペゼンティブランドを立ち上げるというのだ。ミツはペゼンティの窮地を見逃せなかったようだ。100台のオーダーを出して、前金で払ったという。次々にペゼンティのフレームは入荷する。

コロンブスの最新チューブのミニマックスというフォーン加工されたチューブの最上位モデルと、コロンブスSLXというダブルバテッドチューブのフレームだ。接合部分はティグ溶接後に金属パテでスロープを仕上げたラグレスのフレームだった。

僕はミツにしつこく誘われて、ミラノショーに合わせてペゼンティの工房へ行くことにした。北ミラノ駅前のパルパドマスという小さなホテルで待ち合わせることになったが、日本へ問い合わせて見たが、南アフリカで会社のクレジットカードを使った形跡があるらしいが、ミツはやってこない。どこに行っているかもわからなかった。

仕方がないのでレンタカーを借りて、ロマーノ市のペゼンティの工房を訪ねた。来るのは知っていたらしいが、何しに来たのと聞かれた。ペゼンティのバイクのプロモーションを仕掛けるにもビジュアルがないと話にならないから、とりあえず、見にきたというと、グレリスやペゼンティのバイクが載っている雑誌を手渡すと写真を見て喜んでくれた。

工房を見るかと言われて、社長室から1階の工房へ降りると、とんでもないものがゴロゴロと転がっていた。イタリアナショナルチームが世界選のチームロードで優勝した時に使っていた、チネリのレーザーだった。ミラノショーに展示された実物が3台置かれていた。

レーザーアメリカやレーザーレボリューションもあった。まるで意味がわからなかった。なぜかブリヂストンサイクルのネオコットも1本あった。ペゼンティはこれはみんなここにいるスタッフがで作ったのだという。

ネオコットのヘッド部の後ろにあるフィンは、レーザーのフィンからインスパイアしたもので、ペザンティがデザインしたものでチネリが意匠登録して、ブリヂストンサイクルがハイドロフォーミングチューブをロー付け溶接で組み上げて、ライセンス生産しているのだというのだ。

工房の隅に置かれているお宝は、全てをペゼンティがデザインして、腕っこきの職人のグラッチアとファビオが溶接したり、仕上げたもので、芸術大学の学生が工房内の塗装工程と焼き付けようの炉で一貫生産しているという。

あまりに熱心にそれらを見て驚いていたのを見て、ペゼンティは社長室へ戻って、椅子の後ろにあった金庫の扉を開けて、デザイン画やスケルトン図を見せてくれた。ペゼンティはイタリアンバイクのこれはというバイクに関わっていたのだ。その内容が凄かった。

僕は無茶苦茶興奮していたらしい。これはビアンキのタイムトライアルバイクのチクワトロ製のシートチューブレスのカーボンバイクだ。これはミラノショーに展示されていたモドロのクロノスのコンセプトモデル。みんなペゼンティデザインだったのだ。

くるくる丸まったケント紙を広げる度にこれもそうだったのかと、知っているコンセプトモデルや、有名なプロ選手の名前が書かれた設計図ばかりだ。イタリアのキアプッチ選手用に、コロンブスチューブの軽量アルミフレームも手がけていた。熱処理はペゼンティがアドバイザー契約している、コロンブス本社の熱処理炉で厳密な温度管理下で仕上げられていた。

ロシアのパシューターのエキモフ選手のオリンピック優勝バイクも手がけていたのだ。この人は第一線で働いてきたのに、チネリブランドや、チームスポンサーのペイントが施されて、ゴーストブランドとして甘んじていたのだ。僕は是非取材したいとお願いした。これも今は天国にいるミツが繋げてくれた縁だと思っている。

突然のこのこやってきた東洋人が、金庫に収まっていた設計図を見て、顔を真っ赤にして興奮して、ほとんどのバイクを言い当てて、現物も見たということに驚き、ペゼンティも一緒に興奮し始めていた。この人は本物だ、本当は自分の存在を知って欲しかったのだろう。

チネリに納入されたレーザーにはAペゼンティの刻印がハンガーに刻まれている、表に出るべき人だと思った。ふらっと来た日本人がデザインしたほとんどのモデルを知っていたことが嬉しかったらしい。2人とも興奮して汗だくになっていた。ペゼンティは涙を流していた。握手を求められて、アミーゴと呼ばれた。それからは家族を紹介されたり、手作りのパスタを家でご馳走になったり、ベルガモのローマ時代からあるトラットリアへ連れて行かれた。

イタリアを拠点にプロチームを運営した時には、レース会場までの道案内にスタッフを貸してくれたり、物騒だからサポートカーやトラックを工房の敷地内に収納させてくれたり、ランチアというスポンサーを探してくれたりもした。イタリアへ挨拶に行くと言ったらリナーテ空港まで迎えに来てくれて、帰りも心配だからと、カウンターまで来てくれてオーバーチャージの交渉までしてくれた。熱いおやじだな〜。

日本に来たら僕がサポートする番だ。エスティマで成田へ迎えに行き、大阪本社や岐阜のカーボン工場へ連れて行き、自転車事業部を立ち上げようとしていたミズノへ紹介した。ラフィカというカーオンバイクをデザインしたり、ラケット製造のノウハウを生かして、カーボンフォークをデザインして、デ・ローザなどが採用している。イタリアだけでなくヨーロッパ圏の販売の権利をペゼンティが持っていた。ミズノとのアドバイザリー契約や販売の権利で、少しは恩返しできたかな。

お酒好きのペザンティは、インソニアというバールの常連で、インソニアのロードチームをサポートしている。ロマーノへ行く度にGSインソニアのメンバーとロードで一緒にロンバルdジアの北部へ走りに行った。ペゼンティと僕のバイクは同じサイズだったので、松永くんがアマンダブランドの時に作ったカーボンバイクとペゼンティのバイクを乗り換えて走ったものだ。

だから、こうしてイタリアのバイクをデザインしてきた無名の人が、スタッフやチネリのマネージャーと激論しながら、心血を注いで作り、ミラノショーで発表されて、東京のサイクルショーにも展示された2台の美しいチネリのコンセプトバイクを、丸々コピーしておきながら、あっさりと自分のデザインだと言ってのける九州のフレームビルダーと、それを知りながら掲載した雑誌の編集部を今でも許せないのだ。




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