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2020年02月26日10:15

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人生意気に感ず「中村医師と田中正造。怒りの大地アフガン。正造は甦った」

◇ふるさと塾の熱心な塾生Kさんから、アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲医師の著書を頂いた。アフガニスタンは世界で最も苛酷な環境のところ。裸の幼女が地に伏して泥水を飲む姿は胸を打つ。中村医師はパキスタンでハンセン病に取り組んだ人であった。アフガニスタンと接する地帯(ペシャワール)はハンセン病の多発地帯であった。当時(1982年頃)パキスタン全土のハンセン病患者は約2万人。そしてハンセン病専門医は3名であった。私は上毛新聞にハンセン病をテーマにした小説「死の川を越えて」を連載した。そこでは患者が差別と偏見に苦しむ姿を描いた。
 小説の中で実在した医師小笠原登氏を別名で登場させた。この人は普通の医師は近づくことも恐れた患者を人間として接し丁寧に触診した。私は中村哲医師を小笠原医師と重ねて捉え、心を打たれたのである。
◇驚いたことはこの中村医師が田中正造に傾倒していたことである。それはペシャワールやアフガニスタンで、世界で最も深刻な環境問題に直面したからである。地球温暖化による想像を超えた大旱魃(かんばつ)だ。ここで中村医師は井戸を掘る決意を固めてその運動を行った。「知行合一」の実践につき中村医師は環境問題の元祖田中正造を心に描いたに違いない。中村医師は地の果てで、この大旱魃と対峙することは古くて新しい問題と受け止め、足尾鉱毒事件に一生を捧げた田中正造の言葉を記した。広がる鉱毒の原を目にして言った。「以上の毒野もウカと見れば普通の野原ナリ
。涙ヲ以テ見レバ地獄ノ餓鬼ノミ。気力ヲ以テ見レバ竹槍、臆病ヲ以テ見レバ疾病ノミ」鉱毒の原も環境と闘う姿勢によって異なる光景に見えるというもので、その意味は深い。これは怒りの大地を前にした中村医師の心境に違いない。田中正造全集第15巻352頁には明治34年12月7日と日付がある。正造が明治天皇に直訴したのは直後の12月10日であった。私に中村医師の著書を提供したふるさと塾のKさんは80歳を過ぎた敬虔なキリスト教徒である。昨年11月17日(日)、私は友人とKさんの教会のミサに出た。
◇私は現在、毎日新聞(群馬版)に「よみがえる田中正造」を連載している。正造は「俺の事業を理解する者がいない」と嘆いた。今、時空を超えて正造の信念が甦っていることを確信した。正造の歓喜の表情が浮かぶ。(読者に感謝)

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