川端康成論ですが、
恐ろしい。
理論があって、個々の文章の意味や評価が決まるのではなく、
個々の文章があって、理論(知的理解だけではなく感情など)が決まる。このプロセスに、決定的な働きかけをするのは、形である。
その指摘をするのがよく出来た評論であり、研究ですが、前からよいと思っていた恩師の研究がこんなに良いとは思いませんでした。
「二人で一人、一人で二人」という、形。
『しゃれ』という小説には、双生児の娼婦を買う話がある。「二人で一人、一人で二人の彼女たちには、官能の利欲ばかりではなく精神の麻痺がある」と、川端は語っているが、これがどうやら宿命的に、<自己浄化>と<淪落>の二つを持った母親一般の像につながると、東郷先生は述べます。
『古都』の、一人はみなしご、一人は捨て子という双生児の設定も、同じ。
『千羽鶴』の、父の愛人だった女性も同じ。
母親や女性に対するときの精神の分裂と統合を見事に暴き立てています。
そして、その分裂や統合は、
母親の愛が浄化であるのはいいですが、芸妓や娼婦は文化的かつ制度的な負のステグマですが、
それに言及する直前で、先生は、スパッと論を終えています。
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