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2021年07月24日18:38

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今年の講義の最後の原稿ができつつあります。

たとえば、目の前に

苦しんでいる患者様がいます。その方の本当の苦しみは、外部の人間には、わからないでしょう。



その病に罹った人でなければ分かりませんし、

また、同じ病でも感覚に個人差があります。



だから、わかるといっては、いけません。相手が痛みを受容できるお手伝いをするということになりますが、そもそも、わかるということを先人はどう考えていたのでしょうか。



日本人は「以心伝心」による伝達をする民族だ。心を以って心を伝える、非言語的なコミュニケーションが日本のコミュニケーションの特徴だといわれることがあります。



ウソですね。文献上の根拠がありません。

少し余談になります。「マンガを読むな」という大人がいます。マンガという偉大な日本文化をわかっていない(それどころか「読むな」と言っている大人はマンガをろくに読んでいないから、こういうことを言ったらウソになる)人がこんな風に言うのはおかしなことです。



むしろ、私は、文献上の根拠がない与太話を聞かないというのが、正しい在り方だと思います。マンガはフィクションです。ウソではありません。だから、読んでいいと思いますし、マンガでしか伝わらない思想もあります。

質の低い新聞記者や教師(この二つの立場の人はピンからキリまでです。素晴らしい教養人もいればそうでない人もいます。この場合は、新聞記者や教師にはいろいろな人がいるが、その中で質が低い人間という意味です)やらが垂れ流す話は、根拠がないウソが混じります。そういう話を聞いても得るものはありません。

たとえば、金権主義やブランド趣味。諸外国と比較すると。日本が一番マシです。「日本人は、世界で孤立しないために、お金ではなく精神的豊かさを追求するべきだ」などの意見に問題があるとは、ヨーロッパや中国に一週間も行けばわかることです。



挙げていけばキリがないので止めますが、

コミュニケーションについても、同じです。

「以心伝心」とは言っても、心が言葉なしに通じ合うなどというSF的な戯言ではなく、先人たちは、実際はもっと深くて複雑なことを考えていました



以下、『快庵的傳大中寺禪室内秘書』の「佛界魔界」の章を引用しましょう。

『快庵的傳大中寺禪室内秘書』は、曹洞宗快庵派の秘伝書です。

快庵は、上田秋成『雨月物語』に登場し、化け物がうごめくおどろおどろしい魔界を氷解させ、恐怖の世界を現実に引き戻す役割を果たす名僧です。この快庵の教えをまとめた秘伝書です。快庵が立て直した大中寺の僧、門庵が、

後輩の僧に秘訣を教える形を取っています。





痛みも苦しみもない安楽な世界…仏界

痛み苦しみ、悪徳、異常の巣くう世界…魔界



簡単に言うと、プラスの境地が仏界、マイナスの境地が魔界です。



以下、対訳形式で紹介しましょう。



『快庵的傳大中寺禪室内秘書』「佛界魔界」



…佛界魔界を云てみさしと。門菴云 先ず是は 佛界とは、五十二位を経尽その説示で走ぞ 夫の佛界には入り易いぞ 扨て魔界に難入と云は 魔界は夫の侭 夫の性で不経不尽直の肌ゑだぞ 爰をば千手千眼もつ 不到神道方便釈迦からげても成り走まい







…佛界魔界(仏界には入りやすいが魔界には入りにくいという語句)のことを説明してみなさいと。私門菴はいう。 まず、これは 佛界とは、五十二位という仏になるための修行をやりつくした上でわかる境地でしょう その仏界には入り易いよ。修行をすればどんな人でも行きつけるからである。 さて魔界に入りにくいというのは 魔界はそのままで修業も何もしていない人間の体質(個人の持っている宿命)のことだからだ。 ここは、神仏のさまざまな知恵やその方便(便宜的な説明)をすべて投入しても理解できない。







魔界の説に到ては 更らに何んとも弁報し難い 何んとも明らめられてこそ程に 爰ゑは佛祖の言句では到られまいぞ 何んと挙すも 夫れは佛界の間だぞとくつと嫌て落る也 学結る時き 爰に雑談が在る 是を垂示に下也 在る時き 花叟和尚かの御前で 実貞か良屋かの問い 御申しあった 佛界魔界をば 何んと心得申走ず処を 折リ節し 御前に灯籠をともし於いたを ふつと吹き滅し御――る 向う心得さいと被仰(二字不明) たと云心ろも明らめ出るは 佛界よ(中略)爰は極暗で 何んの弁処も無いところが 魔界たぞ 





魔界の話に至っては 全く説明できない。何とか説明できればいいが、ここへは、仏の言葉では行きつくことができないぞ。何と説明しても、(師僧は)それは仏界のことだぞとクッと嫌って(弟子は問答に)失格するのだ 学問が行き詰まっている今、雑談がある。これを垂示として下そう。ある時 快庵様の御師匠様である花叟和尚の御前で、実貞か良屋(信者の武士。詳しいことは不明)かが出した問いを話しあった。佛界魔界をどう心得るかということを談じているそのときに、御前に灯籠をともしておいたのを、花叟和尚は、フッと吹き消しなさった。このように心得なさいとおっしゃったという、その花叟和尚の行動の意図も明確になるのが佛界だ。





 爰を色きを分ぬ乾坤未分の一処と云た 群魔の境涯に明らめは無いぞ (中略)扨て魔界と云は 無叓字で 白色白□ 夫の侭破句の性で無叓字だ 叓字の在るは 佛祖のはらわたよ 破句は夫の叓字に打頭より触れず傾ぬ 





ここは、色合いも区別できない主観と対象が分離していない場所である。ここに座っている魔界に落ちた人々の境遇を明確にできるものはない。(中略)さて魔界というものは、意味づけることが出来ないものであり、白色白□(この四字意味不詳)、そのまま他に文脈としてつながっていかない性質である。意味付けは、佛祖の脳裏だけにある。魔界についての言葉はその意味付けに最初から触れることもなく闇に埋もれてしまう。(中略)





一家愁ー―門を一家愁閉て居た 終に開てこそ 向閉じて人の肌ゑ居処が其侭の魔界だ 愁て閉ては 夫の門裡をも住み荒してぞ なぜーーば 愁一片で打叓無いぞ時き 其の肌ゑをもぬけたぞ 向う住荒してぞ 愁る程ど戸ぼそが荒れ 猶もしまったぞ 

是は快庵派傳受の參也 天峯さまより白菴 其より門菴 他見不出 形見





我らが一門は、そのような真っ暗な何も見えない場を、愁いて(その戸を)閉じていた。最終的には開くが、このように閉じて人の体質(「肌ゑ」)が存在する場所が魔界そのものであり、愁いて閉じてその門の内側と、魔界が存在する場をも住み荒すべきだ。なぜならば 愁うだけで意味付けがないとき、魔界の体質をも抜けることができるからである。このように住み荒して、愁いているうちに(部屋の)扉が荒れ それでも、閉まることだよ。

これは曹洞宗快庵派に伝授された門参(公開されない秘伝)である。天峯さまより白菴 それより門菴に伝えられた。 人に見せてはいけない。形見となる重大な考え方である。





ノーベル賞を受賞した作家として著名な川端康成は、晩年、この鎌倉の地に住んでから、他人に揮毫(墨で掛け軸などの字を書くこと)を頼まれると、「佛界易入 魔界難入」の八文字を好んで書きました。

「佛界易入 魔界難入」は、「佛界入りやすく、魔界入り難し」と読みます。

仏の世界には、入りやすい。しかし、魔界には入りにくい。



体が痛いとしても、痛みのない状態は誰しも想像できます。

自分の家庭環境が滅茶苦茶であっても、思いやりをもって、家族が幸せに暮らしている姿も想像できます。



しかし、苦しみや悪徳、異常心理などは想像したり意味づけたりすることができるでしょうか。

ここに連続殺人鬼がいるとします。魔界そのものですが、殺人の心理はわかりません。また、その者に対して「お前の行動は、他人を傷つける、人間として行ってはいけない行為である」などと言っても、それは仏界の理屈であり、魔界の理屈ではありません。



すなわち、我々は殺人鬼ではない以上、

意味付けできない個人の体質である殺人鬼の心の魔界をとらえることができません。



痛みや苦しみも同じです。

痛みは、主観と対象が分離していません。

勉強など仏界のことは、「さて、今日は遅いから、テスト勉強(対象)を止めて寝よう(主観)」などと分離できます。しかし、痛みは、突然、襲ってきて、痛みを感じる自分(主観)と痛みそのもの(対象)を分けることなく、我々を苦しめます。そして、他人はどのように痛いのか、苦しいのかを、把握することができません。



いいかえれば、「佛界」という言葉でいうプラスの世界には、存在する理由がありますが、「魔界」というマイナスの世界は、理由がない現実だということができます。



では、どうするべきでしょうか。

相手をひたすら心配し愁うべきである。そして、意味付けという安易な決めつけをしなければ、その魔界も抜けることができると快庵は教えています。

そうすれば、「(部屋の)扉が荒れ それでも、閉まることだよ。」すなわち、外の世界(痛みを感じている当事者だけの問題ではない、社会的な問題)とつながり、しかも痛みを感じている当事者の問題を、他人事としてではなく見つめることができると。



魔界を抜けるとは、

誠意が患者様に伝わるということでしょうか。

意味付けをしないからこそ、痛みが孕んでいるさまざまな問題をそのまま受け取ることができる。その結果、患者様は、苦しんでいる自分を受容することができるという意味でしょうか。



また、意味付け(意味付けができるということは、すでにみんなが知っている範囲の言葉を使って考えるということ。すなわち、今まで行われた医療を適用すること。)をしないからこそ、在宅医療など新しい社会的な援助の必要性がわかり、議論されるということでしょうか。



その提起するものは大きいです。



ただし、背景には、「本覚思想」という、誰もが仏になれるという、きわめて日本的な思想(日本でできたのではないが、日本で大流行した思想)の影響があります。だからこそ、魔界にいる人の苦しみも、正しく扱えば、社会を救う力になると位置付けているのでしょうか。



このような、日本的な発想は、国際化していく未来にどのように発展したり変質したりするのか、きわめて興味深いところです。




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コメント

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2021年07月24日 19:49
    こんばんは、にゃそです。



    やっちゃんさんの日記を読ませていただいて「幸せの形はみな同じだが、不幸の形はそれぞれ違う。」という言葉を思い出しました。

    人間は幸せになるために生きているのだと思います。不幸になりたい人間などおそらくいないでしょう。不幸な人は、幸せになりたいのに、そういう意志に反して不幸になってしまうのだと考えます。

    ですから仏界には入りやすいが、魔界には入りにくいというのは、何となく想像できます。つまり、人間の(幸せを志向するという)心の本質が、魔界に入る力に対してブレーキをかけているから、入りにくいということなではないでしょうか。

    本覚思想など難しいことはわかりませんが何となくそう思いました。素人的な考え方で恐縮ですが。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2021年07月24日 20:31
    > mixiユーザー 

    コメント、ありがとうございます。
    > 幸せの形はみな同じだが、不幸の形はそれぞれ違う。
    は、家庭について、トルストイの『アンナ=カレーニナ』の冒頭でさりげなく置かれている言葉ですね。

    「仏界易入 魔界難入」は、川端康成が、晩年に好んで揮毫した言葉だそうです。その時に、みんなが幸福になりたいから不幸になりにくいと考えたのか、それとも自分の独自の倒錯心理は自分だけのものだと考えたのか。当事者にしかわからないことかもしれません。

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