今も、この言葉は使いたくありません。
なぜか。簡単です。自分の距離感が正しく、他がまちがいというよりは、倫理的に邪悪であるといわんばかりの言葉だからです。
また、抜け者にする、村八分にする…ということと密接にかかわる言葉だからです。
自分が正しい、自分と似ているのものは、正義だ。そうでないものは、いじめてやれ。吐き気がします。
また、相手の意を迎える(たとえば気に入られるようにする)という含意もあり、救いようがないですね。
たしかに、この言葉は嫌いです。
ただし、他人の領分に土足で入ってくるようなの、わけがわからない抽象的な専門用語に浸って悦に入っている人は、年々、苦手になっています。だから、気を遣わず、言いたいことを言う、あまりにも酷い場合は無視するということも多くなりました。
結局は、自分を現実に合わせても、嫌な思いをするだけだというわかりきった理屈です。現実を自分に合わせなければいけません。
私は、周りからみたら社会に適応している人間でしょう。仕事はあるし、家族もあります。ただ、こういうことに気が付くのは、かなり時間がかかりました。
また、気が付いたからといって、楽にはなるでしょうが、ころあいの対応ができるわけではありません。どう対応したらよいか…という、もう一つ課題を乗り越えたころには寿命が来てしまうというところでしょうか。
悩んで賢くなっても、その賢さを生かせる期間が短ければ意味がありません。周りの顰蹙を買っても、バカに徹した方が幸せになれるとさえ思います。
結論的にいうと、この方の悩みは、万人のものです。この方特有のものではありません。まじめすぎて苦しい思いをするのは、弱者の専売特許ではありませんから。万人が経験する可能性があります。だから、ある障がい者の体験というようにとらえるべきではないでしょう。
また、ご本人は「ほどほどの距離感」とおっしゃっています。この言葉を使わない方がいいと思います。「ほどほど」であろうがそうでなかろうが。
自分の人生の主人公は、自分だからです。
■転職30回、ひきこもり…「なぜ普通に働けないのか?」孤独死寸前の生活を救った「竹ぼうき」の音
(ウィズニュース - 09月30日 07:00)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=220&from=diary&id=6250003
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