私がもっとも孤独を感じたのは、何もしていない大学一二年のときでした。
(私事ですが、パスカルの『パンセ』を読んで、デカルトのコギトにこだわる愚をさとり、西洋哲学におさらばして、さて、何をやろうか…という目標を見失ったときです)
これは、辛かったですね。
振り返ると、彼女もいましたし、友人もいました。
孤独を感じる必然性もなければ、客観的に孤独と言えない状況でした。
やるべきことがないと、人は孤独になるのだと、実感します。
だからこそ、ボランティアということが叫ばれるのでしょう。
鷲田清一は、阪神淡路大震災以降のボランティアについて、
「日頃の仕事は、誰かと交換可能であるが、ボランティアをして、誰かにとってかけがえのない存在になることで、見つかるはずがない自分の独自性の代替となる充実感を得られる」
という趣旨のことを述べています(私の要約。本文は正確には覚えていません)
私の仕事は、他と代替可能ではありますが、本当の意味で歯車のような仕事ではありませんし、少なくとも自分の独自性や個性を探すという愚かしいことはした経験がありません。
しかし、鷲田清一の述べていることは、間違いなく正しいと思います。
教養や文化の存在意義も、そこにあるのでしょう。
有名になるとか、実利を得られるということでは必ずしもありません。
楽しく充実すればいい。
また、その結果、人のつながりが得られることもあります。
近代文学研究で、ガリ版刷りの冊子で、神保町で法外な高値で取引される本があります。
名前は度忘れしましたが、
ある戦前の作家の郷里に住み、長年勤めた高校の国語の先生を定年退職した方が、自分の足で作家の足跡を調査したものです。
引き受け手となる出版社がなく(もしくは探さず)、ガリ版に厚紙の表紙をつけてごく小部数くばり、間もなく著者は他界したそうですが、その冊子でしかわからないことがあり、研究者たちが血眼になって探しています。
生きていらっしゃったら、講演の口がかかったり、東京の大学院生が菓子折りをもって、はるばると訪ねて来たりということがあるでしょう。
しかし、そういう発見をした方でなくても、気軽に参加できる場があります。
特に地方には歴史系や文学系の研究会があります。
東京は、意外なことに学会や学会付属の講座がその役割を果たしている場合もあります。
とても、その任には当たれないと断りましたが、無窮會の講座がその一つです。
「その任には当たれない」とは、受講者の、特に一般企業を定年退職した人のレベルが非常に高いからです。
趣味に生きる人は、恐ろしいお力をお持ちです。
http://www.mukyukai.jp/course/index.html
■65歳超の単身世帯は約3割 老後をひとりで生き抜く6つの秘訣
(AERA dot. - 09月04日 07:02)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=173&from=diary&id=5273008
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