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2017年02月23日09:59

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アラン・プロストの誕生日

昨日はニキ・ラウダの誕生日で、明日がアラン・プロストの誕生日。2人の誕生日がたった2日しか違わないのを今になって初めて知った(ただ、星座は異なる)。

今年はルノーF1にアドバイザー的な立場でかかわるらしいが、提案力はありそうだから適任だと思う。フィジカルコンディショニングの面でも活かせるノウハウがあるかもしれない。

さて、プロストというとセナとの関係で語られることが圧倒的に多いが、今回は他の四天王、つまりピケとマンセルとの絡みを振り返ろうと思う。「Grand Prix Special 四強の時代」を参考にさせてもらった。

ピケとの関係は、この本でのプロスト本人の発言の通り、特にいがみあったとかいう類のことは何も聞いたことがない。そのピケがセナやマンセルを相手に派手なケンカを繰り広げたことからすると実に不思議だ。

ただ、ピケは1983年が終わった時点ですでに2回チャンピオンを獲得して、E.フィッティパルディ以来のブラジルのトップレーサーになった。この時点で自分のポジションが「確立されてしまって」、守らないといけないところに、同郷の後輩のセナが一気に力をつけてきた。そのことに対する対抗心や焦りなどの感情が入り混じった感情が起こったことはありそうだ。

1983年はピケとプロストが最終戦までタイトルを争ったが、1984年以降、2人は活躍するタイミングが微妙にズレていく。1984年はプロストとラウダのマクラーレンTAGが席巻。対するピケは予選ではポールを取りまくったが決勝は開幕からリタイヤの連続で早々にタイトル戦線から脱落。1985年もブラバムの凋落は止まらずプロスト>ピケ、1987年は逆にピケ>プロスト、1988年以降は再びプロスト>ピケとはっきり分かれていて、直接熾烈な争いにはそもそもなっていない。1986年は最終戦のまさに最終ラップまでタイトルを争ったが、この年ピケはウイリアムズ内でマンセルと壮絶な内輪モメをしていたから、そっちの方で手一杯だったのかもしれない。

変わってプロストとマンセルの関係もわからないことが多い。かつてはこの両者は仲がよかったが、フェラーリでチームメイトになってから間柄が悪化したと言われている。しかし、そこまではっきりしたものなんだろうか。

仲が良かったといっても友人だったかというと個人的には疑問だ。にマンセルは基本的に(直接の利害の衝突や事故がない限りは)、同業の仲間には広く紳士的な人間だったと思う。フェラーリで実際にチームメイトになったあと、プロストがチーム内で政治的に振舞ったことでマンセルが気を悪くしたと言われているが、じゃあ具体的に何があったのか、という話もあまりない。

1990年のフェラーリでは、マンセルは前年に移籍してきて2年目で、プロストとマクラーレンの関係の深さと比べたら、フェラーリは「マンセルのチーム」にいうほどではなかったと思う。シーズンが始まると前半戦(マンセルが引退発表したイギリスGPの時点)でプロストはポイントでマンセルを大きく上回り、マクラーレンセナとのタイトル戦線に躍り出た。その観点から言えばフェラーリがプロストにより力をそそいでもチームの立場としてはおかしくはない。コンストラクターとしてだけでなく、ドライバーでもタイトルを取って翌年もカーナンバー1の赤いマシンが欲しいのは言うまでもない。だから成績が逆だったらマンセルの方が優遇されていた可能性は十分にある。

いや〜しかし、この本の桜井淑敏氏のインタビューを読んで改めて思うのは、ホンダが自社のエンジンの開発を進めるためにどれだけ寄与するか、という点でしかドライバーの価値を認めていなかったとうかがえるところだ。桜井氏は「マンセルは比較はできても絶対評価ができない」と言うし、プロストも後藤氏から「ブラインドのテストは良くても、具体的な改良点を伝えてそれを確かめる能力はない」という趣旨のことを言われていた。エンジンだけでは車にはならないんだからホンダの横柄さにもあきれるよ。

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