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2020年09月21日08:19

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連続ブログ小説 淋しい生き物たち−少女の欲しかった日 第156話

   epilogue or bonus track  THE DAY AFTER
     (終章 あるいは おまけ  その翌日)

 彼はひとり芝の上に座っていた。目の前には最後に玻璃と見つめたエメラルドグリーンの海が広がっていた。この海は何十億年も昔に生命体を宿して以来、一体どれほどの命を産み、育んできたのだろう。空を見上げる。この宇宙に、一体どれほどの生命体が存在するのだろう。けれども玻璃は無に帰した。長すぎる歴史の中にも多すぎる存在の中にも、玻璃は、無い。彼の中にはこれほどまでに鮮やかな刻印が遺されているというのに。彼は手の中の玻璃の石を、強く握りしめた。
 彼が死ねば玻璃の記憶さえ無に帰してしまう。今はその思いだけが彼を生き永らえさせていた。今は彼ではなく、彼の形をした精巧な置物がそこに置かれているだけだ。
 何を考えても意味はなかった。考えることさえできなかった。玻璃がいない。その不存在はどんな存在より圧倒的だった。喪失。これほどまでの喪失。失うことが嫌いだったのに。失う勇気なんか自分にはなかったのに。

 サクッサクッ、背後で芝を踏む音がしたが、置物に耳の形はあっても、音を聞く機能はない。
 サクッ、サクッ、サクッ。
 サクッ、サクッ、サクッ。
           フォト

「失礼します。ちょっとよろしいでしょうか?」
 女性の声が言った。
 さすがに声がすれば頭は反応した。彼が振り返るとそこには、グレーのスーツを一分の隙もなく着込んだ妙に表情の薄い女が立っていた。そう若くはない。
 それが仮にどれほど若くて魅力的な女性であろうと、巨大な鯨であろうと恐竜であろうと、想像することもできないようなどんな物体が立っていたとしても、今の彼にはひとかけらの意味もなかった。それが玻璃でない限り。
 彼は何の反応もせず、顔を海の方に戻した。何だか知らないが消えてくれ。
 けれども女は消えないばかりか言葉を続けた。  
「私、大滝里香と申します。本日はご申請いただきました件についてお詫びに上がりました」
 申請? 彼はメタンガスを吐き出すドブのように淀んだ頭の中に手を突っ込み、泥水の中を掻き回して探す。申請、申請、申請・・・・。申請と言えば経営していた小さな会社を畳むときに、届出書だの申請書だのをいくつも書いた憶えがあった。そのことなのだろう。こんな島までわざわざどうして足を運ぶ必要があるのか、自分の所在が何故わかったのか、いくつかの疑問は頭をよぎったが、そんなことはどっちでもよかった。考えられなかった。考えることがいやだった。

【作中に登場する人物、地名、団体等にモデルはありますが、実在のものとは一切無関係です。】
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