ふたりは今日までいくつの夜をそうして過ごしたのか、ベッドの上で娘は父の腕に抱かれている。父はその手触りを香りを、全てを記憶に刻みつけようと娘を抱きしめる。娘もしがみつくが、娘が刻みつけた記憶はもうすぐ永遠に消えてしまう。
「気を失うほど恥ずかしかったけど、見てくれてありがとう」
父はずっと闘い続けている。ゼロ歳の、16歳の小娘とは違うのだ。
「お礼なんかおかしいよ。でも、やっぱり色気はまだちょっと足りないかな」
「だよねぇ。でもそれはお父さんのせいだ」
「どうして?」
「だってお父さん、私が人も振り向くような美人になる、頭もよくてやさしくて強くてって想像してくれたけど、色気もあってって言ってくれなかったじゃない」
「そっか。玻璃はぼくのあのときの想像通りに成長してくれたんだね。でも、まさかそんなときに娘が色っぽくなることなんて期待する父親はいないさ」
「それもそうだね。そんな父親がいたらちょっと危ない」
娘が小さく笑ったとき、壁の時計が微かな音で時を告げ始める。父の胸が誰かに締め上げられる。娘の美しい顔が醜く歪む。時計は時を告げ終えて沈黙する。
「お父さん、私のお父さん、そろそろ行くね」
「そうだね。時間だ」
ふたりはベッドを出、ゆっくりとドアに向かう。
「もう泣かない! もう何も言わないで行くね」
「うん、そうしよう。父娘だもん、お互い言いたいことはわかってる」
父と娘は無言のまま、ドアの前で最後の抱擁を交わした。父の腕はやさしく娘の背を抱き、娘は父の腰をそっと抱いた。
カッ・カッ・カッ・カッ・・・・。
秒針の音が高くなる。娘が静かに身体を離す。父に背を向け、ノブを引いてドアを開ける。
ドアの外から娘が父を見つめる。ドアの中から父は娘を見つめる。娘が最高の笑顔を浮かべ、父も微笑みを返す。
娘は前言を翻す。
「お父さん、ありがとう。私、今日が一番切ないけど、今日が一番幸せだった」
父は約束を守り、心の中で絶叫する。
行くな玻璃! お願いだから行かないでくれ!!!
ゲーテは言った。時よとまれ、君は美しい。けれども、時は止まらない。
娘が外からノブを引く。カチャ。ドアがふたりの全てを断ち切る。永遠の向こう側に、娘は消える。冷酷なドアに向かって、父は思わず何かをつかもうとするかのように腕を伸ばす。けれどももうそこに娘の姿はない。
叫びも囁きも全てが無に帰する。
【作中に登場する人物、地名、団体等にモデルはありますが、実在のものとは一切無関係です。】
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