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2020年09月18日09:07

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連続ブログ小説 淋しい生き物たち−少女の欲しかった日 第153話

 ドアフォンが鳴ったとき、父は立ち上がってドアに向かい、玻璃は立ち上がってさりげなく死角に入った。
 開栓もテイスティングも断り、彼はドアの前でワゴンごと料理を受け取り、サインをしてそそくさとボーイを追い出した。テーブルにワインと料理を並べながら、彼の頭に「最後の晩餐」などという言葉が浮かぶ。振り払う。
 テーブルに向かい合って座り、彼はボーイに置いて行かせたソムリエナイフでワインを開け、ふたつのグラスに注いだ。くすんでいながら透き通った赤は、いい色だった。
「えーと、何にしよう? 父娘のめぐり合いにかな? うん、今夜はふたりのバースデイだ。ふたりのバースデイに!」
 けれども同時に、今日はふたりの命日だ。
 父が掲げたグラスに娘がグラスを合わせる。ペカンとまろやかな音がした。少しグラスを揺すってから、彼はワインを口に含み、「うん、悪くない」と頷いた。
「お父さん、ワインに詳しいの?」
「いや、実は全く知識はない。でも玻璃のお母さんは好きでね、よくふたりで飲んだから、味は少しぐらいわかるよ」
「じゃ、私は、私のお父さんとお母さんに!」
 娘がグラスを掲げ、父がそれにグラスを合わせる。またまろやかな音が鳴る。
「最高だった玻璃との旅に」
 父がグラスを掲げる。
「旅で出会ったやさしかった人たちに」
 娘がグラスを掲げる。
「最初の頃の玻璃の奇妙なしゃべり方に!」
「お父さんのいびきと酒臭さに!」・・・・・
            フォト
 そんな風にふたりは何度もグラスを合わせた。弾けるように笑いながら。けれども乾杯のネタがつきたとき、また沈黙が部屋を満たす。
 カッ・カッ・カッ・カッ・・・・。
 壁の時計は世界中の人々の思惑を全て無視して時を刻む。
「あのさ、玻璃、玻璃の中にぼくの、と言うか、この世界での記憶は残るのかい?」
 答えを聞くのは怖かったが、父は訊いた。
 娘は寂しそうに首を振った。
「記憶は残らない。と言うより、私は無に帰してしまうから、何も残らない」
 娘から差し出された事実は激しく父を打った。
 無に帰する。
 無に帰してしまうなら、娘のために祈ることさえできない。娘を祝福することさえできないではないか。父は噴き上がる情動と懸命に闘い、捻じ伏せてから淡々と言う。
「そうか。全部、消えちゃうんだ。悩みも痛みも苦しみも悲しみも。それって、案外いいかもね」
 娘は寂し気な笑みを浮かべる。父は慌てて訊く。
「ぼくの記憶も消されちゃうってことはないんだよね?」
「それはないと思う。きっと」
「ならよかった。ぼくは玻璃の記憶を宝物にしていられる。悩みも苦しみも、辛さもいっぱいある世界だけど、玻璃の記憶と一緒ならそれも悪くない」
 玻璃との記憶が全て消えてしまった方がずっと楽ではあったのだろうけれど。
「ありがとう。私のことずっと憶えててくれるんだね」
 娘が淡く微笑む。

【作中に登場する人物、地名、団体等にモデルはありますが、実在のものとは一切無関係です。】
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