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2020年07月14日10:47

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連続ブログ小説 淋しい生き物たち−少女の欲しかった日 第88話

「映画とかは経験値の中に含まれてるの?」
「うん、『もののけ姫』も観てるよ」と先回りしてハリが答える。
「ぼくも観たけどずいぶん前のことだからね、巨人が出てくるシーンが頭に残ってるんだけど湖があったよね。ここに湖があると思ってたわけじゃないけど、森の中に開けた空間があるイメージなのね。断片的で勝手なイメージだけど」
「そういう感じじゃないよね。私もここに来てみて、ああそう言われたらっていう程度かな」
「ぼくには『もののけ姫』云々はいらない予備知識だったなぁ。それがなかったらもっと素直にこの森を見ることができたと思う」
「そうかもしれない。人それぞれに必要な情報って違うんだね」
「うん。ぼくはハリの何を知るべきで何を知らないままでいるべきなのかよくわからないけどね」
 ハリの表情が僅かに陰ったが、彼がそれに気づくことはなかった。
 気の遠くなるほど長い時を経た老木、岩肌を分厚く覆い隠す苔、魚も嫌いそうなほど澄み切った谷川、全てを包んで静寂を呼び覚ます霧、それらは間違いなく魅力的なのだが、彼には何故か浸りきることができなかった。
 窓口の女性が提案したコースより少しだけ奥まで分け入り、同じコースを戻ってきた。行き交う人々は皆がマナーのいい登山者だった。むしろ眉をひそめられたのは彼らの場違いな軽装の方だったかもしれない。
 渇きは苔を伝ってしたたり落ちる天然水で癒した。彼のシャツやタオルは汗で重くなっていたが、ハリは汗をかかない。
            フォト

 宿に戻ったのは夕方早くだった。洗濯担当のハリがシャツもジーパンも全部脱げと言い、洗濯室を見てくるからと部屋を出た。彼はシャワーを浴びることにし、悪いがシャワー室まで汚れ物を取りに来てくれと、廊下の行き止まりの洗濯室に声をかけた。
「でもジーパンは洗わなくていいから」とも。
 彼は不潔好きでも無精者でもなかったが、洗いざらしのジーパンがあまり好きではなかったのだ。
「わかった。便宜上、私もシャワーを浴びた方がいい?」と死角に入っているハリの声だけが戻ってくる。宿には彼らふたりだけだった。
 彼はハリがシャワーを浴びている間に、八重山の鳩間島に電話をかけた。彼が長い間通い続けている小さな島だ。
「あらあご無沙汰してます。お元気?」と、いつも世話になっている宿の女将さんが電話に出た。少し世間話をしてから部屋の空き状況を確かめておいた。ゆとりはあって予約を急ぐ必要はないようだった。
 ルートも含めてまだ決めかねていたが、その島に渡ることは選択肢のひとつには加えていた。お気に入りの島をハリに見せたいという気持ちはもちろんある。一方、ハリとは、ふたりがともに初めて経験する場所を回りたいという思いもあった。それに顔や人となりの知れた鳩間島では、ハリとの親子ごっこを続けることもできない。口永良部島で出会った好青年と浴槽の中で語り合ったとき、青年は自分の希望としては是非とも鳩間に向かってほしいと言っていたのだが。

【作中に登場する人物、地名、団体等にモデルはありますが、実在のものとは一切無関係です。】
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