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2020年07月13日09:25

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連続ブログ小説 淋しい生き物たち−少女の欲しかった日 第87話

 屋久島には昼過ぎに着いた。今日は暑い。
 まずは3日間乗り放題のバスチケットを入手したが、「お待ちしています」と笑顔を浮かべた美女は待っていてくれず、案内所のカウンターにいなかったので観光センターまで足を延ばさなければならなかった。
それから民宿までバス通りを歩いた。階下が釣具店でその上が安っぽい民宿になっている。経営は同じらしい。釣具店でチェックインをしたが、民宿の担当者という女性が出てきててきぱきと処理をし、明日の弁当の段取りもあっさりと済ませた。彼らは新館の予約ということになっていたようで、少し離れた、値段の割には驚くほどきれいな建物に案内され、弁当は明日の早朝に玄関のボックスに届けておくと言われた。
 部屋も新しかった。シャワー室、ランドリー室、キッチンなど効率的に案内を済ませ、これから白谷雲水峡に行くと言うと、バスの時刻やバス停を端的に教えて女性は戻って行った。ふたりはすぐに宿を出た。

 バスは市街地を抜け、澄んだ川に沿って山道に入り、どんどん登って行った。道端でヤクザルの子どもたちが遊んでいる。山々の森が深い。陽に映えた遠景の山肌は思わずハリが「きれいー」と溜息をつくほど美しかった。重い沈黙のように濃い緑、恋人たちの夢のように若い緑、そのコントラストも鮮やかで、こんな山肌は初めてだと彼も思った。これが世界遺産の森なのか。                   
 バスは30分余りで白谷雲水峡の入り口に着いた。管理事務所で協力金を払うと、窓口の中年女性は、一瞬にして彼らの体力と装備を値踏みし、それと帰りのバスの時刻とを合算して地図を指さしながらひとつのコースを提案した。彼女にはきっとそういう特別な技能が備わっているのだ。
          フォト
 周りに人はいるがそれほど多くはない。山道に入って行きながらハリが呟く。
「大丈夫かな? 周りの人たちみんな本格的だよ」
 確かに目にした人たちは誰もがそれなりに登山の格好をしていて、ふたりの軽装だけが黒鳥の中の白鳥のように浮き上がっていた。
「遊歩道が巡ってるし遭難することはないだろうけど、お茶忘れてきたんだよね」
「ええ? 大丈夫?」
「うん。じゃなくてちょっと心配かな」
「頼りないなぁお父さん。可愛い娘を守ってよ」
 けれども遊歩道とは名ばかり、いきなりの急な山道で先に息を切らしたのは彼の方だった。
「お父さんてばメタボじゃないけど運動不足じゃないの?」
「それは確かだけど、ハリが元気すぎるんじゃない? ハリの学校では体育の単位も必須だったのかい? 比喩だけど」
 ハリは笑いながら、そんなものはなかったけど自分は若いのだと言った。確かにハリは若く、彼はもう折り返し点を多分過ぎていた。たった16年間のハリの生い立ちを彼は抽象的にさえ思い浮かべることができなかったけれど。
 白谷雲水峡は映画『もののけ姫』の監督が何度も通い、作品の中の森のイメージを作り上げた場所だとパンフレットに書いてあった。けれども彼は映画の森を先に見てからここにいるのだ。

【作中に登場する人物、地名、団体等にモデルはありますが、実在のものとは一切無関係です。】
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