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2020年03月26日13:16

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グレッグ・イーガンの中短篇を読む(トップ10を選ぶ)

「発達した科学は魔法と見分けがつかない」というA・C・クラークの有名な言葉を具体的にイメージできたものとして、1990年代以降に増えたナノテクノロジーの登場するSFがある。
肉眼では見えないものの働きで、いろいろと「不思議なこと」が起こるのだ。知り合いのイラストレーターは「ナノテク物は絵にしにくい」とこぼしていたものだった。
 そのナノテクを使った商品をさもあるかのように、しかも街の店舗や通販で入手できるほど一般化されたものとして、脳にインストールするマニュアルまでを細かく描くSF作家がグレッグ・イーガンである。魔法ではなく、ごく身近なものとして。

『ビット・プレイヤー』を読み終えたあと、グレッグ・イーガンの中短篇の中から、私的トップ10を選んでみようと思いついた。対象は以下の短篇集とアンソロジー収録作。すべて日本オリジナル編集。山岸真編・訳。
『祈りの海』 ハヤカワ文庫SF 2000年
『しあわせの理由』 ハヤカワ文庫SF 2003年
『ひとりっ子』 ハヤカワ文庫SF 2006年
『TAP』 河出書房新社 奇想コレクション 2008年
『プランク・ダイヴ』 ハヤカワ文庫SF 2011年
『ビット・プレイヤー』 ハヤカワ文庫SF 2019年
アンソロジー『スティーヴ・フィーヴァー』より表題作 ハヤカワ文庫SF 2010年

『祈りの海』から20年。その前に山岸真さんから「グレッグ・イーガンという作家の『貸金庫』は〜」と勧めてもらっているわけだから、もう四半世紀以上は経つわけだ。記憶のあやしいものは再読するようにしたが、あれもこれもとまた芋づる式に大半を読むことになり、それは思ったとおり楽しい体験となった。


10位 「不気味の谷」 2014年 『ビット・プレイヤー』所収
 主人公アダムは(老人と呼ぶ)高名な作家・脚本家の記憶や人格をサイドローディングと呼ばれる技術でアンドロイド・ボディに移相された存在。作品舞台のアメリカではアダムのような存在は人間と見なされていなく(飛行機に乗るときは荷物扱い)、老人の遺族たちとの軋轢もある。
 アダム=老人ではない。受け継いだ記憶は本人評価で約7割。知らないことも多い。そもそも老人がどうして自分を遺そうとしたのかは不明(ちなみに創作能力はまったく受け継いでいない)。アダムがその空白の記憶を調べていく過程がミステリ的であり、ぼんやりとした自分のアイデンティティを探すストーリーになる。

9位 「TAP」 1995年 『TAP』所収
 TAP(タップ)は、イーガン作品に度々登場するナノテク商品インプラントの一種で、豊穣なイメージの新しい言語感覚を人間にもたらす。TAPを使用していた老女詩人が突然死して、マスコミは〈死の言葉〉に殺されたと騒ぐが、その証拠はいっさい無い。詩人の娘は事件(事故)の真相を調べて欲しいと主人公の女性私立探偵に依頼する。
 あとに登場する作品にも書いたように、この種のパターンの作品が大好き。

8位 「誘拐」 1995年 『祈りの海』所収
 近未来の美術商の主人公のもとに「おまえの妻を誘拐した」という脅迫映話がかかってくる(映話なので映像付きで)が、妻は家にいて無事だった。
 この時代、自分のデジタル複製を作ることが可能になっていて、主人公もそうしているが、アナログな手法で絵を描く妻は、かたくなにそれを拒んでいて、死んでもやるつもりはないと言っている。つまり実在しない妻のデジタル複製がハッキングされたわけでもなかった。
 この後の展開は伏せるが、真相が明らかになり、主人公の下した決断に自分は共感した(葛藤も含めて)。同時にこれは反発も多いだろうとも思う。そのギャップがこの作品の肝なのだろう。
(余談。昨年NHKラジオ第1の朝の番組で「テクノロジーによる人間の変容」をテーマに話した大学の先生がいたが、リスナーの反発がじつに多かった)

7位 「祈りの海」 1998年 『祈りの海』所収
 コヴナントという星に移住して何千年も経過した人類の神学的SFストーリー。
 主人公は10歳のときに兄の影響で重りを付けて潜水する「儀式」を行い、苦痛のあとに訪れたかつてない高揚感から信仰をより強くする。
 さまざまな宗教的体験、議論、内省を得たあとに、大学で大してやる気のないコヴナントの微生物の研究を始めるが、それがやがて皮肉な結論に達する。科学的事実と信仰との間に苦悩しつつ、主人公は研究結果を公表する。
 ラストの教会の掃除人との会話が心に残る。

6位 「愛撫」 1990年 『しあわせの理由』所収
 近未来の警察官である主人公は、異様な事件に遭う。女性科学者が殺され、地下室では頭だけが人間の女性で、体が豹というキメラが見つかる。それ――キャサリンは意識を取り戻すと、ふつうに会話が可能だった。
 主人公は豹女が19世紀の絵画「愛撫」に登場する存在であることを知り、狂気の芸術家が絵画を現実化させるパフォーマンスの結果であると推測するも……さらにストーリーは驚愕の展開をみせる。
 世の中には沢山の「変態さん」描写があるが、それだけのことをしていて当の本人は「写真さえ撮らなかった」というところに狂気の凄みを感じた。

5位 「チェルノブイリの聖母」 1994年 『しあわせの理由』所収
 主人公の私立探偵は、イタリアの大富豪から消えた聖画像の行方捜しを依頼される。聖画像はオークションで落札したものだが、それを届けるはずの女性が予定になかった場所で射殺されたという。ありふれたはずの聖画像の落札額は異常に高く、それも謎だった。
 ナノテクノロジーを使った追跡装置等の未来探偵デバイスが出てくるが、ストーリーは古典的なハードボイルドのスタイルで(主役はスーパーマンではない)とても好み。ラストもじつに苦い。

4位 「ひとりっ子」 2002年 『ひとりっ子』所収
 イーガン作品にはテクノロジーによる様々なかたちのポスト・ヒューマンが登場する。シリーズ的な未来史設定はないとのことだが、テクノロジーによっては黎明期、過渡期、普遍期それぞれの時期を描いた作品があり、「ひとりっ子」は黎明期を描いた一篇。
 例によってテクノロジー描写は濃密で、それを使うことになるまでの主人公と伴侶の苦悩と希望、産まれた「子」の成長が描かれる。
 なお、それぞれ独立した作品ではあるが、同じ短篇集に収録されている「オラクル」(2000年)を先に読むと(配列もそうなっている)、より大きな感動が得られるはずだ。

3位 「繭」 1994年 『祈りの海』所収
 多国籍バイオ企業研究所の爆破事件から始まるミステリSF。そこで研究していたのは、妊娠中の母親が摂取するアルコール、麻薬、あるいは感染源となる細菌やウィルスから胎児を守る「繭」だった。警察会社(この時代、警察は民営化されている)の主人公は、狂信者や競合他社の線を調べていくが、今度は企業が冷凍保存していたサンプルが放射線によって全滅する。やがて主人公は、退職した従業員の女性が怪しいとにらみ、聞き込みに向かうが、そこで聞かされたのは「繭」が持つもうひとつの効果だった。
 以下はネタバレになるので略。真相が判明するにつれて主人公のアイデンティティが脅かされることになっていく。最後に戦いの継続を決意するも、その先に希望はない。それでもなお……。

2位 「ルミナス」 1995年 『ひとりっ子』所収
 主人公が目を覚ましたら、怪しげな女によって手術されかかっていた、という出だしがインパクト大。この後、数学論が延々と続くので、読者を逃がさないようにするためか?
 とはいえこの作品は「数学が命」というか、数学SFの極北である。世界そのものを変えてしまう数学理論にたどり着いた男女。工業代数社という巨大企業の追跡から逃れるふたりは、上海にあるスーパー・コンピュータ「ルミナス」を使って理論の検証を始めるが、それは世界の変貌を起こしかねない行為だった。SF的醍醐味に満ちた中篇。
 続篇として「暗黒整数」(2007年 『プランク・ダイヴ』所収)がある。
「ルミナス」から10年後、スパコンではなく、市販の安価なPCが武器になっているのは時代性を感じる。そしてさらに派手な、互いの世界の存続を賭けた数学戦争が展開されるのだ。

1位 「しあわせの理由」 1997年 『しあわせの理由』所収
 とても利発な主人公は12歳のとき「しあわせの絶頂」にあったが、特殊な脳腫瘍に罹っていた。腫瘍が「しあわせ」を感じる脳内物質の濃度を上げていたのだ。新開発のウィルス療法で腫瘍は取り除かれたが、今度は治療法の欠陥によって廃人同様になってしまう。
 30歳になった主人公に新療法が試みられ、それは成功するが劇的な回復を示すものではなく、18年間の空白はあまりにも大きかった。本人にとって綱渡りの社会復帰が始まる(金銭的、精神的な負担もあって両親はとうに離婚している。新療法の費用は医療事故なので保険会社が出してくれたが、生活は楽ではない)。
 知り合った女性は主人公を受け入れてくれるかと思いきや、そう世の中は甘くない。ラストは、久しぶりに会った父親との会話。短くも、すばらしい余韻を残す。
 あらすじだけを書くと、いくらでもお涙頂戴な語りになりそうなものだが、(他のイーガン作品同様に)感傷的ではないところが良い。
 このようなアップダウン(多くはダウン時)の激しい人生はそうそうないものだが、程度の差はあれど、多くの人間に共感できる部分があるのだろう。
 2005年〈SFマガジン〉誌上にて行われたオールタイム・ベスト投票で海外短篇部門の第1位となった作品である。

 こうして挙げた作品名を見ると、自分はミステリ的なスタイルやプロットが好きなことが分かる(思いっきりスケールの大きな「鰐乗り」「孤児惑星」も好きなんですけどね)。
 他にボーダー上で迷ったのは「ビット・プレイヤー」「イェユーカ」「ボーダー・ガード」「伝播」「自警団」「銀炎」「貸金庫」「ワンの絨毯」などなど。
 順位はいま現在の印象、読後感なので、あとになって入れ替わったり、選外から上がってくるものもあるだろう(現役作家なので、新作も加わるだろうし)。
 こうした作業が悩ましくも楽しいのが、グレッグ・イーガンという作家の作品だ。
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