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2020年01月21日18:51

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哲学の作法ー哲学するのと哲学を勉強するのは違うような気がするけどそうなの?

相変わらず本は積どくだけのワタクシです。

今日も昼寝してたら日が暮れました。

タイトルのような命題が(って言う日本語でいいのか?)ずっと私の頭の中をぐるぐるしていまして、まぁ、私は自分の頭で考えたいというより、今回のブームは、だれが何を言ってどうやって歴史的に承認されてきたのか。という事に興味があるというそういうことなので、「自分で考える」と言うことには微塵も興味がないのですが、


どうも哲学コミュをいくつか見ていていると、その辺の定義があいまいになっているような気がしたので、自分で、ちょっと整理してみたいと思います。


ちょろっとぐぐってみたら、こんな文章があって、非常に納得してしまったのですが。

寺田俊郎先生と考える「哲学する」ってどういうこと?(前編) 哲学カルチャーマガジン『ニューQ』発売中!|ニューQ編集部 #note https://note.com/newq/n/n0615913b6f35

一部抜粋ー


「読む哲」と「する哲」

瀬尾 哲学には、ひたすら昔の本を読んで物知りになるというイメージがあったのですが、哲学対話などの実践活動があることを知ると、自分で思索を深めていくような哲学のやり方もあるということに気づきます。きっと「哲学する」というアクティビティには、いろいろなバリエーションがあるんですよね。

自分は音楽が好きなのでジャズを例にすると、「ジャズをやってる」と言うと「それは聴く方?それとも演奏する方?」と聞かれることがあるんです。曲を聴いて評論文を書く人がいたり、特に普段は全然ジャズなんて聴かないけれど、即興のノリがジャズっぽい人を「あいつスイングしてるよね」なんて言ったりすることもある。哲学にはそういう一般的な認知がないというか、「哲学する」という行為がどんなものなのかの世間的な理解が定まっていないのではないかと気づいたのですが、いかがでしょうか?

寺田 確かに「難解な本を読む=哲学」というイメージを持っている人は多くて、それ以外にもいろいろあるはずの哲学的な活動ってまだそんなに認知されてないんじゃないかな。

ーーーー

瀬尾 確かに、ドゥルーズとかデリダとか、ちょっと難しめな哲学者の著作を頑張って読むのがかっこいいと自分も思ってました。

例えば現代音楽も、分からないと思いながら聴くんですけれど、何度も聴いていると何かを掴めたかもと思うことがある。難しい問題を前にして、それをして何が得られるかは分からないんですけれど、とにかく抗うのが楽しいみたいな、滝行のような感じですね。

今井 なるほど…。確かにその喜びはなんとなく理解できます。

寺田 ただ、その快は往往にしてやはり権威に支えられてると思うんですね。例えばデリダやドゥルーズじゃないとダメで、どこの誰が書いたかも分からないただ難解なテキストだったら誰も読もうと思わないわけですよ。それは音楽でもそうだと思います。特に最近の芸術論の中には、芸術の権威が芸術だと認めたものが芸術なんだっていう考え方がありますよね。芸術の権威が認めた芸術、しかも難解なものを頑張って繰り返し聴いているうちになんとなく分かったような気になって、「芸術とされるものを自分は理解できるんだ」と思う。なんだかそういう喜びになっている気がしません?

今井 そういうゲームなのではないかと思います。自分にはよく分からないけれど、とにかく権威によって定められたルールがあって、ゲームをやっているうちになんとなくルールが掴めてくる。ルール自体を疑ったり問い直したりはしないけれど、とりあえずゲームに参加できていることが楽しいということはよくあると思います。

瀬尾 でもそのルールをつくっているのは、アートだったらアート市場であったり評論家なわけじゃないですか。評論家は少なくともある程度分かっている人たちでしょう?最終的にルールを理解できるようになることは、結局アートを分かってくることになるのだと思います。哲学でも、分からないながらも頑張ってドゥルーズを読み続けて、批評家の説明を聞くことで︑理解が深まっていくと思うんです。

今井 ドゥルーズが書いた難解な本を読み続けてなんとなくドゥルーズが分かってくるというのと、有名でもなんでもない人が書いた難解な本を読み続けたらなんとなく分かってくるというのは同じことですよね。それなのに、なぜドゥルーズが書いたもののほうが良いかと言うと、「ドゥルーズはすごい」という風潮が先にあるからです。

瀬尾 なるほど。

今井 ただ、それ自体は悪いことではない気がします。哲学書だって、多くの人が価値を見出したものだけが残るべくして残ってきたわけで、みんなが「これはすごいよね」と言い伝えてきたものを、自分も分かるようになりたいという欲求は良いものだと思います。ルールにも価値があります。

でもそれは、真理を知りたいという欲求とは分けて考えた方がいいのではないでしょうか?真理はその辺にいる普通の人が持っているかもしれないし、私が考えることでしかたどり着けないものかもしれない。ただ修行的に権威ある人々が使う共通言語を自分も喋れるようになるということを目指すのは、ルールありきのゲームで強くなろうとすることに似ている気がします。


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抜き書きしましたけど、凄いわかりやすい。



デリダの文章が難解だって言う話は良く出てくるんですけど、まだ原典に当たってないからなんともいえないですが、私はなんとなく、そんなに難しいこと言ってない気がする。って言うのはそれを紹介した本を書いた人の日本語が上手だったからかな。




で、

哲学するのと哲学を勉強するのは違うような気がするけどそうなの?

のタイトルの答えについては、

そうです。


って言う話っぽいですね。



権威と勉強と、自分が何かしらすることって言うことはいつも考えてきたのですが、ホント、なかなか興味深いっすよ。




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