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2019年08月20日07:56

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「天真療法」案内179

前回は、春充が「正中心落節」の際「大生命」を体験し「世界が輝いて見えた」ことを見てきました。「世界が輝いて見えた」ことについては、刊行予定『聖中心伝−肥田春充の生涯と強健術−』(壮年編)と(晩年編)に多くの章をさいて解説していますので是非お読み下さい。今回は、春充が直感した「大生命」とは何かを見て行きたいと思います。そしてそれは、これから見ていくようにいわゆる単なる幻影とか幻覚のようなあいまいなものではなく、我々が実感できるある感覚の延長線上にある、地に足のついた感覚であることもおわかりいただけると思います。この感覚について春充は次のよう言います。
眠って居(おっ)ても、体は宇宙の生命に侵されて、来るのが解る。空気と共に、宇宙の生命が、肺細胞の中に這入(はい)って来て、肺組織を透(とお)して、生命を与える。これが体全体に、満ち溢れる。其処(そこ)に至(いた)っては、至上の幸福と、歓喜とを感ぜざるを、得ないのである。(聖中心道肥田式強健術 P.732〜733)
ここで、「空気と共に、宇宙の生命が、肺細胞の中に這入って来て、肺組織を透して、生命を与える。これが体全体に、満ち溢れる」と言っていることに注目したいと思います。春充は「正中心」に落節して完全な健康体となると、自分の嗜好が大きく変化したことに気がつきます。それは、自然界にありふれている最も普通な「空気」と「水」が最も美味に感じるようになったことです。この感覚は、春充が20歳の時、2年間の歳月を費やし自身の考案した強健術を行うことにより健康体を得た時にすでに感じた感覚でもあります。最も初期の著作『実験 簡易強健術』には水について次のような記述があります。
予が運動の後に起こる欲求は水である、この時は茶も不可、湯も不可、ただ水である、冷水である。予はこの水の嗜好よりして自然に茶が嫌いとなった。始めはそうでもなかったが、今ではあの混濁した色に対して一種の嫌悪の念が浮かんで来た。(実験 簡易強健術 P.164)
茶と甘い菓子は春充の好物でしたが、強健術で健康体となると自然にこれらが嫌いになったと言います。さらに、空気については次のような記述があります。
何よりも美味しいものは、新鮮な空気だ。新鮮な空気が良い位のことは、誰だって知って居る。だが諸君、本当に空気の味が御解りになりますか?
私は不断に、體の鍛錬に努めて居(お)ったけれども、空気の味など解らなかった。其(そ)れが本当に解ったのは、矢張(やは)り大正12年に、完全なる正中心が、出来てからである。空気には生命の味があるんだ。それが夜寝て居(お)っても、スースーと云(い)う、穏やかな寝息と共に、何億かの肺細胞―広げれば1500畳敷からの広さになる、其(そ)の無数の気胞の中に、隅の隅まで這入(はい)って来る快さよ。其(そ)の美味なることよ。(聖中心道肥田式強健術 P.243)
空気には「生命の味」があるというこの記述は、つまり日常の最も当たり前な呼吸という誰でも行っている行為の中に「大生命」を直感したということになります。空気が肺に入る時、気胞に空気が満たされる時それを「美味」と感じ「快い」と感じ「幸福」と「歓喜」を感じる。誰でも日常行っている最も普通の行為にここまで感動し、ここに宇宙の神秘を直感する。我々にとっては、日常の最もあたりまえな行為であるがため、かえってここまでのありがたみはほとんどありません。真の健康体にして初めて呼吸という営みの凄みがわかるのかもしれません。とにかく、春充は我々がある意味、最も普通に行っている行為の中に、宇宙の大生命を直感したのです。正に「玄妙即常凡」と言えるでしょう。
(写真は、春充の生家近くの一乗寺内を流れる湧水)
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