mixiユーザー(id:1107882)

2019年04月21日12:16

82 view

「天真療法」案内58

前回は、春充に命を救ってもらったある医師が「天真療法」を取り入れた医院を開業した話を見てきました。その結果は、誰もその病院を訪れることが無くなったのですが、それについて春充は次のように感想をもらします。
アア、医業も矢(や)つ張り、商法なるかな。仁術の俤(おもかげ)を滅ぼしたのは、医者の罪か。患者の罪か。病気は、患者自身が持って居(い)る自然療能で癒(なお)るのだぞ。其(そ)の能力を活動させるのには、薬や過剰栄養は、却(かえ)って良くないぞ―。だから、お前の病気を癒(なお)すのには、金は何もかからんぞ。お前自身の養生の執(と)り方で癒せるのだ。…ソンナ地味な、見すぼらしい、頼りない、危なげな療法には、現代燦然(さんぜん)たる文化に、酔って居(い)る世人は、一瞥(いちべつ)を与える余地だに、持たないのだ。せめて有がたそうな神様でも、担(かつ)いで来なくては、物になる筈(はず)はないのだ。其れを知らないのは現代に対する認識不足なんだ。(天真療法 P.209)
この医師と同様の方針を持つ医師も春充の回りには二木謙三博士をはじめ何人かはいたようですが、ここまで徹底するのは難しかったようです。たとえば、兄信水が教育部長として勤務していた郡是製糸の郡是病院長西博士と春充は次のような対話をしています。
春充:「医者が余りに、多く薬物を用い過ぎはせぬだろうか」
西博士:「患者の多くは、多くの薬を用いることを切望し、それが無ければ、病気は癒(なお)らない様に、考えて居(い)る者が、其の殆ど凡(すべ)てであると云(い)って差支(さしつか)えが無い。又(また)医者の中には、殊更(ことさら)多くの薬を与えて、其(そ)の歓心を買うことに努める者すらもある」(天真療法 P.274)
また、知り合いの茅ヶ崎湖南の高田博士が、無料の出張診療をしていたので話しかけたところ、春充の予想に反した答えが返ってきたので少々驚いたとの話もあります。
私は、
『診察してやって、処方箋を与えるのですか』
訊(き)いたら、博士は、
『イヤ、医師会の規定によって、処方箋をやることは出来ない』
との返事故(ゆえ)、私は、
『患者は、処方箋を欲しがるでしょうね』
と云(い)ったら、
『そうです。処方箋をやらぬと、物足らぬようです。けれども、薬で癒(なお)る病気はないから、処方箋などやらぬ方が、良いのです』
と云われたのは、我が意を得たる名言であったけれども、私の全然予期しなかった答えだったので、私は奇異の感に、打たれざるを得なかったのである。(天真療法 P.275)
この点、春充の尊敬していた二木謙三博士は徹底していたようです。
私の嫂(あによめ)が、脳溢血で倒れて、重態に陥(おちい)った時、二木博士は、態々(わざわざ)見舞に行かれて、注射も服薬も、一切廃(や)めさせて、只(ただ)絶対安静と合理的食養法との2法を、厳正に守ることを、勧めて帰られたのであるが、2年後、私が訪ねた時には、病気前よりも、丈夫そうになって居った。二木博士の如く、自然科学と生理学の真髄を把握した、本当のお医者さんは、天下の至宝であって、私は、かくの如(ごと)き医学医術医道の渾然(こんぜん)として一となれる真医が、世界の至る処(ところ)に、続出せんことを、熱望して止(や)まないものである。(天真療法 P.275)
このように見てくると、医師と薬は全く無用なのではないかと考えたくなります。また、「天真療法」は、「代替療法」、「民間療法」、「信仰治療」などがよく主張する、医師、医薬、医療否定論と同様ではないかと思いたくなりますが、これまでも繰り返してきましたように「天真療法」は単純な医薬、医療否定論ではありません。また、「信仰治療」、「民間療法」などの極端な医薬、医師否定は誤った態度であると強く排斥しています。このことについての春充の意見は次回に詳細に見ていきたいと思います。
(写真は、一乗寺境内を流れる小川、春充の故郷小沼にはこのような湧水の清らかな流れが至る所にあります)
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する