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2019年02月19日12:19

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出版予定『聖中心伝ー肥田春充の生涯と強健術ー』内容紹介6

近刊予定『聖中心伝ー肥田春充の生涯と強健術ー』(壮年編)の内容紹介を引き続きします。
第六章は、いよいよ春充の人生の中で最も重要な「聖中心落節」について触れることになります。
第六章 「聖中心」落節
1 結婚
2 執筆と長女誕生
3 「強圧微動術」の出版
4 心境の深まり
5  兄 信水の影響
6 迷信と新興宗教
7 郡是製糸と信水
8 国際労働会議と信水
9 国際労働会議と田沢義鋪
10 郡是製糸と春充
11 鬼塚捨造、正二親子
12 安藤亀次郎
13 江連力一郎
14 尼港事件
15 大輝丸事件
16、別の理由
17 『独特なる胃腸の強健法』
18、石塚左玄の食養
19、村井弦斎の食養
20 中心落節前夜
21 聖中心悟得
22 聖中心体得の瞬間
23 正中心落節以後の主な変化その1
24 聖中心落節以後の主な変化その2
25 正中心落節以後の主な変化その3
26 二等主計への昇進
27 関東大震災
28 次兄 真永の死
29 中心力雄弁法
30 村民との対立
31 『二分三十秒の運動で健康の中心を強くする法』、『川合式強健術』の出版
32 それまでの強健術の誤り
33 『実験 根本的健脳法』
34  中井猛之進と天然記念物リュウビンタイ
35 春充と昭和天皇
36 講演とその反響
37 中心力抜刀術
38 訴訟事件
39 加藤時次郎の死
40 養父 和三郎の死
41 谷村金一の子
43 飯田トウ隠との出会い
春充は大正6年2月に、静岡県伊東市八幡野の肥田家に婿入りします。この肥田家は、江戸時代より名医、慈善家を輩出した伊豆の名門で、明治期には勝海舟が渡米した咸臨丸の機関長を勤め、後に初代宮内省御料局長となった肥田浜五郎(1830〜1889)を生み出しています。
春充は、当時鉄道もなく車が走れる道路もない大自然に囲まれたこの地を終生好みました。家のすぐ下には、このブログでも境内の写真を紹介した、伊豆最古と言われる来宮(きのみや)神社が鎮座するまさに仙境と呼べる場所でした。
ここで、春充の境地は益々深まっていきます。結婚して間もなく、新著『体格改造法』を発表し、新たな改変を施した強健術を発表します。さらに『強圧微動術』という著作も発表し、強健術が行えないほど衰弱した病人に施して強健術と同様の効果が期待できる方法を公にします。
更に、この大自然の中で強健術の深まりと同時に、精神的境地も深まってきます。これは、観念と運動を分離することが特徴の強健術によって、観念を用いずに運動を行っていると、それに伴い精神をコントロール出来る状態が更に深まったものです。この頃より強健術によって「中心力」を起こした状態と、禅の境地の類似に気が付き始めます。
一方、兄信水も独自の修行法でその宗教的境地は深まり、多くの人々を感化するまでになります。その徳を慕い現在のグンゼの創業者 波多野鶴吉(1858〜1918)は、信水を教育部長として迎え入れます。これには、精神的教育より功利的側面を重視する多くの反対の声がありましたが、信水の教育により郡是製糸は新工場を次々と建設し、全国の模範工場にまでになります。当時は全国で、激しい労働闘争が巻き起こり社会問題化していましたが、郡是製糸ではそのような対立は全く見られませんでした。信水の理念は、貧富の格差が広がる現代にこそ必要とされるような普遍的なものであり、その功績によって国際労働会議の代表にも推薦されます。これが縁となって、強健術は郡是製糸の体育として採用されることになります。
その頃、伊豆の春充のもとを江連力一郎(1888 〜1954)という武芸百般の青年が尋ねます。彼は後に「大輝丸事件」という、ロシア船を拿捕し、ロシア人を惨殺する事件を起こし世間を驚かせるのですが、その遠因には現在ではほとんど知られていない、ニコラエフスクで日本人居留民と駐留してた歩兵隊計700名余りが、ソ連のパルチザン兵に全員虐殺された「尼港事件」があります。そして、「尼港事件」の背景には当時日本が行っていた「シベリア出兵」が存在します。ここでは、春充とこれらの事件、国政とどのような関係があったのかを掘り起こします。
春充は江連と会談した翌大正12年に『独特なる胃腸の強健法』を発表します。これはいわゆる「食養」を解説した本ですが、その原点には軍医 石塚左玄(1851〜1909)と、『食道楽』の作者 村井弦斎の食養が存在します。そして、春充は石塚に連なる食養の系譜上、「マクロビオティック」の主導者 桜沢如一(1893〜1966)の先輩にあたります。
大正12年5月に長男 修一郎が誕生し、6月に春充は「中心」感覚が深まった「聖中心」に落節します。そして、その姿勢、境地が坐禅のそれと同様であることを確認します。この時より、強健術と春充は大きく質的に変化します。その様子、内容についてはこの章で様々な観点から徹底的に追及します。また、この「聖中心落節」より春充は、様々な能力を発揮するようになりますが、この能力についても多くの観点から考察し、それが春充の主張するように合理的なものであることを明らかにしていきます。
そして、この第六章の最後を飾るのは、春充の境地を臨済宗、曹洞宗両方の禅を修め、500年間不世出の傑僧とわれた飯田トウ隠老師(1863〜1937)が認め、二人が互いの境地について丁々発止の問答を繰り広げるエピソードです。また、二人の禅に関する背景も詳しく見ていき、この稀有な「一期一会」の場面を深く掘り下げて行きます。
『聖中心伝ー肥田春充の生涯と強健術ー』(壮年編)は、こここで終わりです。
(写真は、数え年45歳の時の春充、この時は既に「聖中心」に落節していました)

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