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2020年12月02日21:25

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【隅田川の橋】6

(不定期に、ぼちぼちと)

『【論考】江戸の橋』には、両国橋創架(1661年としている)が起点になった隅田川の橋の対比略年表がある。ただし千住大橋を含まない。
これを眺めると、どの橋でも、「出水」による損壊が、わりと頻繁に起きている。
1859年(安政六年)までの、ほぼ200年のあいだに、両国橋は初期には三度の焼損もあるが、1714年を最後に「焼けた」とは載っておらず、江戸の火災対策がなんとか実ったのだろうと想わされる。そのかわり、水が原因の破損や杭の流失は、この期間中まんべんなく11回を数えている。均せば18年に一回。細かいものが略されているのだとしても、これだけでけっこうな頻度だ。
約30年後に出来た新大橋の水災破損は、創架以降同じく11回。永代橋も同じ回数。こちらは、均すと15年に一回となる。
他の橋より100年前後遅く出来た大川橋については、3回だけ載っている。それでも28、9年に一回の勘定ではある。
そんな中で、河口にいちばん近かった永代橋のみ、船がぶつかって壊れた、との記載が5回ある。うち1回は風雨とは関係がない。

いったい、木の橋には、長いスパン(橋脚間の距離)がとれない欠点がある。とくに将軍家の船が橋下を通ることを想定して、両国橋など、中央部は、なるべく広く開けるように設計はしたのだが、広くと言っても五間から六間すなわち10m前後だった。他はもっと狭いわけだ。これでは船のぶつかる心配から逃れ得ない。それでも、小荷物を運んだ幅七尺の茶船だとか、吉原へ行くような細身の猪牙船が通るぶんには、たいして支障はなかったのだろう。先の年表で新大橋や両国橋、大川橋に船衝突の記載がみられないのは、これらの橋下を、大きな船は、さほど通らなかったことを物語っている。
では、永代橋だけに船衝突による破損が多く見られるのは、何故だろうか。
河口に近いこの橋の手前には、船荷の入ってくる問屋がひしめく新川の地が控えている。自然、大きめの船もやってくる。小廻しで使われた五大力船は、八尺から十七尺、すなわち広いもので5mの幅をとった。これらの船の載貨重量は小さいものでも六十石すなわち9t、最大級だと五百石すなわち75tあった。こんなのが制御を失ってぶつかってきたら、橋の杭は、ひとたまりもなかったろう。
実際そんなリスクが永代橋には常にあったことが、今の永代橋のやや北、日本橋川を豊海橋で渡ったところにある説明板からうかがえる。この説明板には、初代広重の『東都名勝永代橋全図』が、往時の賑わいを伝えるために大きく載せられている。絵を見ると、永代橋から江戸湾に向かって、船また船なのである。しかも五大力船どころではない、もっと大きい弁才船、いわゆる千石船が、佃島沖に帆を連ねている。隅田川の、より小刻みな水運は、まさに永代橋の手前で、大型船から小型船に荷を移し、その小舟が遡上することで成り立っていたわけだ。

大きな事故としては、延享二年(1745)11月12日の大風雨で、迴船16艘が流れてきて永代橋に衝突、橋杭2本を折ってしまった、というのがあった。今の日本橋・日本橋室町・新川の迴船問屋に属するものが15艘、清澄のが1艘だったそうである。(鈴木理生『江戸の橋』に紹介されている。『【論考】江戸の橋』とは別の本である。先程のこちら所載の年表では、この事故のことは漏れている。)

そのほか、珍談奇談を集めたので有名な根岸鎮衛の『耳嚢』巻末に、別の人の手で、こんな話が書かれている。
やはり嵐で吹き流された大型船がぶつかって、永代橋を大破させた。橋守は「大船が壊したのだから、橋の修理代は船主に出させるべきだ」と訴える。しかし、船のほうもめちゃめちゃに壊れている。奉行だった根岸が、「互いの不運天災なのだから痛み分けだろう」と説得しても、橋守は合点しない。それで根岸は、こう言った。「それなら橋の修理代は船主に申し付けよう。だが、船は橋ゆえに壊れてしまったのだから、船の修理代は橋の管理者たちのほうから出してくれ」。大破したといっても、このときの修理代は船のほうが圧倒に高くつく見込みだったらしい。それで橋守は折れて、船側に和解案を呈示して決着したのだそうだ。
先の16艘の事故の頃には根岸はまだ幼かったから、それとは違うのが明らかではある。たぶん文化年間の破損だとは思うが、いまは詮索せずにおく。これを書き留めた人も、「又聞きで真偽は知らない」と断っている。
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