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2016年06月18日22:41

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彼らの声を聞け(35)

小林―ぼくら抽象的思索というようなことをよくいうが、文学の世界にいると、どうしても言葉で考えます。言葉が出てこなければ、なんにもできませんからね。だから言葉を探していてみつかると、先が開けてくる。抽象的計算というのは別だけれど。
田中―抽象的といってもやはり言葉でしょう。数学的に考える場合は、シンボルで考える。しかし数学者なんかでも案外ものを考えていないのじゃないですか。
小林―数字にたよってね。
田中―ホワイトヘッドがそういうことを言っていました。数学は思考の練習になるというが、そんなことは嘘だ。ただシンボルを操作しているだけで実際は考えていないことが多い…。
小林―そういうことはたしかにあるね。“数学者が実はものを考えていないのだ”というような言葉は、なかなかわかりにくいんじゃないかな。つまり合理的に考えようとすることは、極端にいえば数式に引っ張られている状態になるわけで、ほんとうの考えというのは、合理的にいくものではないんじゃないか、というようなことを私はよく考えますね。
田中―考えるということは、案外感覚的なものですね。イメージとか言葉に捉われない純粋な思考というのは、一種のあこがれみたいなものでしょうね。
小林―ぼくら考えていると、だんだんわからなくなって来るようなことがありますね。現代人には考えることは、かならずわかることだと思っている傾向があるな。つまり考えることと計算することが同じになって来る傾向だな。計算というものはかならず答えがでる。だから考えれば答えは出るのだ。答えが出なければ承知しない。
田中―たとえば、新憲法に賛成ということをいいたいために文章を書く。これは考えるのではなく宣伝ですね。新憲法の実体に取り組んで考えてみようという場合には、結論は賛成か反対かわからないわけですね。それが考える文章というものでしょう。
小林―文章の結論がどこへ行くかわかってしまえば、自分でもおもしろくないですね。だからわかっていることはぼくはけっして書こうとは思わない。どうなるか楽しみなんだな。そのかわり、書いていくことと考えることがいっしょなんですよ。ぼくなんか書かなくちゃ絶対にわからない。考えられもしない。
田中―ソクラテスなんかの場合だと、賛成とか反対とかはどうでもいいことで、問答でどっちへ変わっていくかわからない。「ロゴスが動くままに身をまかせる」という意味の有名な言葉がありますね。ただ結論をはじめから決めてかかるというジャンルは昔からあったわけで、法廷弁論がそうですね。検事は有罪、弁護士は無罪という結論を出さなければならない。ぼくはよくからかうんだけども、日本の言論界はだいたい法廷弁論型ですね。
 だいたい日本人は法律論が好きですね。憲法第何条に違反しているか、いないかといった議論ばかりして、国策としてどちらが役に立つかを考えない。あれは政治の議論ではない。政治家というものは、結果的には、自分の最初の議論を否定しても国利民福にプラスするようなものが何か出せるという、リアリスティックな精神がなければだめですね。
小林―その意味で、孔子なんていう人は政治家だね。

(小林秀雄・田中美知太郎「教養ということ」)
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