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2019年12月16日23:55

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宇高連絡船の就航休止、残念です。

 宇高連絡船は、中四国近辺の人には、様々な思い出がお有りでしょう。
私は 結婚して方々転居し、後半 岡山に定住したので、子供や孫達と乗った
楽しい思い出が沢山あります。瀬戸内海の島々の景色は、何時見ても素敵。

 帰りが夜になると、夜景も綺麗でした。疲れたら船室ででゆっくり寝て、
着いたらリフレッシュして運転できるので助かりました。

 でも、瀬戸大橋が出来て、通行料金が徐々に安くなると、橋からの景色も
良いので、松山や高知へ行くのは、ついルンルンで 橋を通っていました。
それがフェリーの利用客減少に繋がり、遂に幕を降ろすことになったのです。

 でも、橋が通行不能になった時、フェリーがなければどうなるのでしょう。
観光面で残すことは、無理だったのでしょうか。休止は 残念です。

 この連絡船で、一番 忘れられないのは、168名もの死者を出した紫雲丸の
沈没事故です。あんまり昔で、すっかり別世界の事故に感じてましたが
宇高連絡船です。当時はフェリーに貨車まで乗せていたのです。

 大事故でしたが、新聞写真も白黒の印刷で、誰が 何時どう写したのか、
沈みゆく船で逃げ惑う女学生のセーラー服姿の写真を覚えています。

 事故は 1955年(昭和30年)5月11日午前6時56分ですから、家を出たのは、
6時前でしょう。嬉しく楽しい筈の修学旅行が、こんな大事故になるなど、
誰も思ってなかった・・。5月の早朝・・恐怖・寒さ・冷たさ・・
声を限りにお母さんと叫んでも 聞こえない、みんな知らない所での事故です・・

 改めて調べてみると、ウィキペディアに詳しい記録が出ています。
小学校や中学校の生徒さんが多かったのです。余りに痛ましい事故で、記事を
コピペする勇気が出ません。

 でも、詳しく目を通し、海難事故の怖さ 恐ろしさ を改めて知りました。
ご家族の方達、涙が枯れるほど泣かれたことでしょう。
記事は、こちらです。→ https://bit.ly/2Eo14bv

 親御さん達、ご存命なら、もう90歳近いかも知れません。
この長い年月、一緒に暮らしたかった と、どれだけ思われたか・・。

 その瀬戸内海に、今は何本もの橋が架かり、私達は車で行き来しています。
新幹線が岡山まで開通する前は、特急うずしおや急行鷲羽が、山陽本線から
岡山駅経由で宇野まで走っていました。新幹線の開通で、それらの特急も急行も
姿を消しました。今は慣れましたが、消えた頃は不便でした。

 宇高航路が幕を下ろし、思うことの多い1日でした。
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