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2014年02月19日13:59

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■『震災惨話』

●2014年02月19日 (水) 晴れ 強風

 ▼話のはじまりは、山田風太郎『あと千回の晩飯』である。
  数えで70歳にでもなれば、いつ死んでも不思議はない。

  ほとんど何も「健康」に留意していない我が身を考えれば
  なおさらである。

  では、そんな状況の私としては、何を考え、何をなすべきか。

  「うその考え」に陥らず、「ほんとうの考え」とはなんであるか。

  宮沢賢治は、もっと別の意味で、「うその考え」「ほんとうの考え」
  ということを言っているらしいが、私のやつは、自分の考えにウソは
  ないか、その「考え」は、自分を幸福にするか、どうかの問題だ。



 ▼「小人閑居して不善を為す」というのは本当で、
  「ぼーっとしていたい」と思い、また、そうして居る方が、
  味わい深く生きられそうでもあるのに、がちゃがちゃ動き回る。

  まあ、そんな自分を慰めて、「地獄は一定すみかぞかし」とか、
  「遊びをせんとやうまれけむ」と思いなし、あまり深くは考えない。


 ▼そして、そうこうして、いまは、『平生釟三郎日記』に至っている。
  で、先日、疑問が湧いた。

  片野真佐子さんの『日記を読む愉しみ』にある、次の文章である。
  
     「そこで飯沼先生たちは安田邸から早々に脱出した。
      しかし、そのとき安田善次郎の息子善雄はのんびり
      構えていて家族とともに焼死した」


 ▼初代・安田善次郎は、コメント欄に書いたように、そのとき(関東大震災)には、
  すでに亡くなっている。
 (震災の2年前の大正10年9月28日、大磯の別邸・応接間で朝日平吾に刺殺された)


  だとしたら、ここに書いてある「安田善雄」というのは、二代目・善次郎の
  子供であろうか。
  それで、逃げ遅れたのであろうか、と思ったわけである。

  それで調べているうちに、いろいろわかってきた。
  結論としては、

    ●まとめ

      初代・安田善次郎
       (子)  ・長男 善之助 → 二代目・善次郎(当主)
           ・次男 善五郎
           ・三男 善雄

       (婿)  ・次女 養子 ←・安田善三郎
           ・三女 養子 ←・安田善四郎           


    ●関東大震災当日、安田邸にいた人物
 
      ・次男の善五郎  → 脱出、舟に避難、助かる。
      ・三男の善雄   → 逃げ遅れ、翌日、病院で死亡。家族も死亡。


  (あの「オノ・ヨーコ」も、「安田家」につながりのある人だった)



 ▼そして、「本所・横網(よこあみ)町」は、私の住んでいた「竪川」からも、
  そう遠くはない。

   
     ●<地図> 倍率変更

  
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       「竪川(立川)」から「横網」あたり (中和小学校へ通っていた)

  
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       「国技館」「旧安田邸」「慰霊堂」あたり  (拡大図)
  


 ▼震災の2カ月後、『震災惨話』という「本」が出た。
  その中に、「安田善雄氏の最後」の話や、「被服廠跡の火葬の煙」の話も
  書かれていた。

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  ●「安田善雄氏の最後」 コマ番号 79、80
   ・http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981832/14

  
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  ●「被服廠跡の火葬の煙」 コマ番号 89、90、91、92
   ・http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981832/14



 ▼「被服廠跡」は、いま「東京都慰霊堂」がある。

  
  
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 ▼昭和26年か27年ころ、鳩がたくさんいる、このお堂の前で遊んだ。
  お堂の中は、炎が燃え上がり、火につつまれた人の絵があって、不気味だった。
  お堂の隣に「復興館」というのがあった。これも、何となくイヤな感じの建物だった。

  不気味だったのは、伊東忠太の「妖怪・お化け」のオブジェも関係していた。


   「昭和26年、東京空襲遭難者の仮埋葬遺骨の改葬が終了し、
    身元不明者10万5千人を、震災記念堂に合葬することとし、
    震災遭難者約5万8千人と、合わせて16万3千人の遺骨を
    祀ることとなり、名称も東京都慰霊堂と改称しました」

  と、「横網町公園の歴史」には書いてある。
  

 ▼『平生釟三郎日記』には、「神ガコノ汚ガレ夕ル血縁ヲ断絶シテ
   コノ世ヨリ如此キ貪欲漢ヲ掃ハントスルモノニアラザルカ」と書かれた
  安田善次郎であるが、善次郎は善次郎なりに、自分の考えがあった。

  安田不動のホームページの「安田巡り」では、第7回に初代・善次郎を偲ぶ
  『引き継がれた善次郎翁の「社会への貢献」墨田区横網』という企画を
  組んでいる。

  そこには、日本橋小網町の本邸から移ってきて、この地を「本邸」にした初代・善次郎や、
  二代目・善次郎が、弟(善雄)の一家を失ない、収集した『廼舎(まつのや)文庫』の
  すべてを焼失し、初代の遺志を継いで「横網」の地を社会へ還元した、
  その思いも綴られている。

  「安田本邸」は現在の「旧安田庭園」の所に、また現在の「同愛記念病院」と
  「安田学園」のあるあたりが、各界の名士を招いた「深秀園」である。



 ▼4大財閥のひとつ「安田財閥」を築き上げた安田善次郎は、平生釟三郎
  同じように、教育事業や 社会貢献も行っている。

  にも拘らず、釟三郎をして、激越な言葉を「日記」に書かしめた。
  なぜ、そうなるのか。
  それは、「日本資本主義発達史」における二人の役割にあるように思われる。

  「日本主義発達史」は、わずか15年ほどしかなかった「大正期」を通じて
  「大正デモクラシー」や「大正ロマン」や「刺殺」に象徴されるように、なさまざまな
  事柄や分野において、次の「昭和」迎える胎動期でもあったと思うと、
  平成の現在とも相通ずるところがあり、興味深い。


 ▼産業や景気のことのほか、震災や天災や戦争などのことも考えながら、
  次は「日本資本主義発達史」を「安田財閥」で見てみたいと思う。

  消費生活協同組合や労働運動、そして、我が家の歴史も、そんな中で、
  考えてみたい。


  そして、唐突のようではあるが、また、「ほんとうの考え」の話である。


  おそらく、「ほんとうの考え」は、一人一人ちがうものだろう。
  でも、「ほんとうの考え」が一人一人ちがうとすれば、「ほんとうの考え」と
  「ほんとうの考え」とは衝突するかもしれない。

  そんなことも、気になってくる。
  宮沢賢治が考えたのは、「どんな思想や宗教立場からでも理解できる普遍の場所」
  だと、吉本隆明の『ほんとうの考え・うその考え』には書いてあったと思う。

  「暗い時代」を避けるためには、「うその考え」も排さなければならない。


 ▼なお、以下に『震災惨話』の目次を掲げる。

 
  ●「目次」   コマ番号 8〜13
   ・http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981832/14

   
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