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2020年08月30日16:02

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養老の滝に酔いしれて

 8月も末日、処暑。七十二候は天地始粛(てんちはじめてさむし)だが、気象庁の予報では、まだまだ気温の高い状態が続くと(もう、カンベンしてほしいものだ)。
月初に「心身か身心か」とヒマにまかせた愚問に囚われ読み始めた養老先生の本。お盆明けに図書館でさらに二冊を借り出して、このところ養老先生三昧。『脳と魂』と『遺言』。

 今日では「心身」という言葉は、「こころとからだ:心と身体」といった意味合いで使い、「ソウル&ボディ:魂と体」といったふうに二元論的に使いことが一般的。かつ、どちらか言えば、心が主かつ重要で身体は従かつ二番手といった感じ(従って、死んで魂が昇天したら身体は単なる抜け殻であり、しばしば唯物論なみに「死んだら人は物」として扱われる。解剖学者だということから「先生には、死体がモノに見えるでしょうネ」さらには「先生には、生きた人間がモノにみえるでしょうネ」と言われて、養老先生は烈火の如くお怒りだ)

 それに対し養老先生の『日本人の身体観の歴史』は、道元の『正法眼蔵』や鴨長明の『方丈記』や西行法師の諸々の和歌を引き合いに出して以下のように言う。中世(鎌倉期)では「身心(しんじん)」と「身」を先に書き、身心は二元論的にではなく一元論的に捉えられている。即ち、身心=身+心ではなく、身は心をも含んでいて一体的に捉えられていた(従って、身は単なる身体(ボディ)より広い概念)だと。

 で、なんでも養老先生によると、この「身心」なる用語が次第に消え去り今日ではモッパラ心身という用語が使われるようになったのは、とりわけ江戸時代に発達した都市に於ける脳化社会の出現に大きく依存するのだそうな。脳化社会とは、その社会が脳とくに大脳皮質の性質を強く発現し、具体的にはもっぱら脳の産物によって構成される、というものだとか。

 この辺りになると、先生の主張される唯脳論とやらが分かってないとなんともならないので、あれやこれやと図書館でそれらしき本を漁ってきた次第なのだが、先生特有の縦横無尽というか自由奔放な話の進め方に難渋して(そこが先生の魅力でもあるのだが)、分かったような気分になったり、再び分からなくなり五里霧中に悩んだり。
(『脳と魂』は、禅僧玄侑宗久さんとの対談本で「まあ、お二人が適当に楽しんでおられるだけ」の本であったが、『遺言』は比較的最近の書き下ろし本で「80の齢になって、それなら言い残したことを書いておこう」と纏められたモノ。)

 『遺言』を読んで唯脳論や脳化社会が分かったかと尋ねられると、「Yes」とは返答できそうにない。しかし、養老孟司式の論旨表現の方法がだいぶ分かりかけてきて、読んでいて、大変楽しく面白く頷ける箇所が多く発見できたような気がした。
書評を書くなんてことは私奴には荷が重すぎるので、以下に本の章立てのみを書き出しておこう。既にお読みになった方もあるかと思いますが、コロナウイルス禍のウサを晴らすのにモッテコイの本だとお薦めいたしましょう。

 1章 動物は言葉をどう聞くか
 2章 意味のないものにはどういう意味があるか
 3章 ヒトはなぜイコールを理解したのか
 4章 乱暴なものいいはなぜ増えるのか
 5章 「同じ」はどこから来たか
 6章 意識はそんなに偉いのか
 7章 ヒトはなぜアートを求めるのか
 8章 社会はなぜデジタル化するのか
 9章 変わるものと変わらないものをどう考えるか
 終章 デジタルは死なない

PS:実のところ、この本の中の「これぞ、核心」とおもえる事柄について書こうと思っていたが、枝葉の話にスペースを取られてしまった。次回に回すことにしょう。
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