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2020年07月06日17:14

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終の身じまい

 二週間ほど前、坪内稔典さんのブログに、『平成の挽歌 大自然に還る』葬送の自由をすすめる会【編】という本が紹介されていた。NPO法人「葬送の自由をすすめる会」が、海や山に散骨する「自然葬」の普及・啓発活動の30周年を迎えるに際して出版したものだ。
大切な人を自然葬で送った遺族らの心の声をつづった多くの文集と宗教学者山折哲雄さん(同会メンバー)のそれら個々の文に添えられた詞書が中心になった本だ。自然葬で、肉親や知人をおくった人々の想いがよくにじみ出ていた。

 末尾に、同会の中心メンバーによる座談会が載っており、その中で霊園の墓は10年で10パーセントが無縁になる、つまり100年でほぼ全部が無縁墓になると語られている。今日、地方のどこそこをを問わず日本中で、無縁墓だとか墓終いとかが囁かれることが多い。
当然のことながら、「自らの終焉はどうありたいのか、自らの葬送をどうするのか?」について考える、つまり自らの死生観をどう持ち身じまいの仕方をどうするかを纏めるべき齢に至っている身として、手元に置いて読んでみたいと取寄せることとした。

 山折さんは「葬式をしない」「墓をつくらない」「遺骨は残さない」の三無主義を唱えておられる。だがやはり、「そう提唱したら仏教界が大反対で、山折はとんでもないことを言いだしたと村八分になった。実家からは家の墓には入れないと言われました。家族を説得するのに20年ぐらいかかって、今ではやっと家内が、樹木葬ぐらいならいいかと言うようになりました」と。
そして宗教学者らしく、「ただ、この30年間に日本人の墓好き、骨好きはほとんど変わっていないし、墓に対する関心が根強い。この現状と自然葬はマッチするかどうか、それとも反発し合うのだろうか?」とも。

 私奴は、「日本人の墓好き・骨好きのそもそもは、チョット見に関係の深そうな仏教ではなく、仏教以前から日本人の間にある先祖崇拝(人は死ぬと魂が山の頂にのぼり神になる)に由来しているだろうと思っている。今日的な意味合いで先祖崇拝というのを考えると、それは自身を養い育ててくれた今は亡き祖父母・父母への私奴ら残された者の感謝や敬慕の想いということになるだと思う。
だとすれば、時に応じて亡き死者に想いを馳せるに有用なモノであれば、なにも葬式仏教の手垢にまみれた墓だの骨壺だのにこだわることはない。チョットした写真なり遺品で充分だと強く思う。
私奴は、ここ三年ほど坐禅でお世話になっていて、居られるお坊様方の気心も存じ上げている宇治にある禅寺の永代供養にお世話になるのが良かろうかと思っている。それは決して骨を預かってもらうとか供養を受けたいとかの意ではなく、単に、私奴の子供や孫がある時私奴のことを偲んでみたくなったら、この寺に足を運べば良い程度のことなんだが。

 私奴自身は、いわゆる仏教(小乗であれ大乗であれ)の教義や思想の深さについては驚嘆すべきものを感じているし、また、それら教義や思想への深いシンパシーなりエンパシーを感じている。従って、信仰の深さを度外視すれば「私は仏教徒です」と宣言しても良い(但し、いかなる意味合いに置いてでも、既存の仏教教団には属さない)と考えている。
従って、私奴の葬儀については、可能な限り質素ないわゆる自由葬(無宗教葬)でやってもらいたいものだ(残された遺族が考えるべき事柄で、本来的にはしなくても良い程度に考えている)と思っている。枕経も不要なら葬儀での仏僧の立ち合いも読経も不要、従って戒名も位牌も不要と考えている。

 以上、山折哲雄氏のように三無主義(葬儀なし、墓なし、遺骨は残さず)とまでは、なかなか徹すことは難しい。また、人によって種々な考え方や判断もあろうかと思う。
以上、Underコロナの一時、こんなことも考えてみたとのご披露まで。
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