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2020年05月25日16:43

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蒟蒻問答?「とはいえ」と「だからこそ」

 3月以来閉ざされていた興聖寺での隔週日曜日朝の定例坐禅会が、このところの一連の緊急事態宣言解除に伴って、6月第一週から再開との案内があった(また、月1回の「坐禅と法話の集い「正法眼蔵」」も再開日時検討中と)。
講師弊道紀老師による「正法眼蔵 現成公案」については、中断直前2月末の講義で「あれっ、どう考えたら良いのやら?」と疑問に思ったことがあった。以来今日まで、この疑問は私奴の中で続いている。

 老師による過去1年間の講話は、上掲写真に示した道元禅師『正法眼蔵』「現成公案」の巻の冒頭の一節に終始した(この僅か四行の文の説明に総計10時間以上が費やされたことになる)。
実に、種々な角度からの解釈・説明を噛んで含めるように、お話していただいたことになるのだが、その上で2月末の講話で老師は、四行目の「しかもかくのごとくなりといえども」という箇所について、「これは逆接続の詞だが、意味合い的には順接続として読むべし」と力説された。

 前の三行の文それぞれは、ごくごく簡単にその意を取れば、以下のようになろう。
一行目:諸法(この世の事物の在り方)がみな仏法であるとの立場にたつと、迷悟があり、修行があり、生があり死があり、諸仏があり、衆生がある(有の世界)。

二行目:万法(すべての諸法)が無我だとの立場に立つとき、まどいがなくさとりがなく、諸仏がなく衆生がなく、生がなく滅がない(空の世界)。

三行目:仏道とはそもそも豊倹(豊さとつましさor有と無)といった世俗的な常軌から離れたものであるから、生滅があり、迷悟があり、生仏がある。

で、問題の四行目が登場する。
逆接の詞として読むなら、「(しかもかくのごとくなり)とはいえ、花は惜しまれて散り、草は嫌がられて茂る」となり、順接として読むと「(しかもかくのごとくなり)だからこそ、花は惜しまれて散り、草は嫌がられて茂る」となる。
この二つの意味の取り方は、たいした違いではないようにも思え、また、大きくニュアンスというか意味合いが異なっているようにも思える。確かに「だからこそ」と読んだ方が仏の教えの理解が深いようにも思える(が、しかし、あまり自信がない)。
一体、老師は何故どのような意味合いをもって、「逆接ではなく、順接として読むべし」と言ったのであろう?

この間の理解の仕方に係わって、仏教学者・哲学者・文学者・宗門の僧侶などの意見を尋ね諸書を漁ってみたが、各自バラバラの意見があって収拾がつかない感じ。
まこと、「道元さんて、言葉つきから異様なところがある」らしく、「そこが玄人受けする」というか「そこが素人泣かせ」というか。(道元さんにウカウカと近づくべきではないなあが実感!)

 いやはや、そんな泣き言はともかく、自粛解禁後の講話拝聴の折には是非とも、蒟蒻問答の一つとして、老師にお尋ねいたそうと思っている。


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