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2019年11月28日09:42

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俳句よたばなし

 雑誌「俳句」11月号に、「禅と和讃 取り合わせと一物仕立て」という項目の一文が載っていた。このところ連載されている小林一茶に関する論考の中の一節だ。
「取り合わせ」とか「一物仕立て」というのは、俳句の世界での句の構造というか形というかに関する用語だが、それらを持った句は禅だの和讃と言い得るとの、チョット面白げな記事だった。面白いと言えば面白いが、チョットばかし理に走り過ぎという感があった。

 俳人の長谷川櫂さんによると、「取り合わせ」とは作句に際し二つの素材を組み合わせる(取り合わせる)ことだそうで、例えば「菊の香やならには古き仏達」は「菊の香」と「古き仏達」を取り合わせていると。何らの繋がりがない二つを並べることで醸し出される妙味を求めている。
「一物仕立て」とは、一つの素材(一物)を詠んで仕立てた句だそうで、例えば「春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな」は、「春の海」だけを取り上げている。散文の一行を切り出してきたような形だとか。

 「禅と和讃 取り合わせと一物仕立て」との一文によると、芭蕉の句には「取り合わせ」の句が多いまさに禅問答のようであると。取り合わされた二つの素材は相互に論理的な整合性がなく、ことばに語らせるのではなく言葉を切り結ぶ。その切り結んだ「間」から生まれる空白に語らせているのだと。幾つかの句を列挙すると、
  古池や蛙飛び込む水の音    旅人と我名よばれん初しぐれ
  梅白し昨日ふや鶴を盗まれし  あさがほに我は食くふおとこ哉  

 そして、一茶の句には一物仕立てが多いと指摘する。そこには禅問答のような難解さはなく、平俗でわかりやすく和讃のようである。和讃とは庶民にも分かるように和語で造られた阿弥陀仏を讃える歌。幾つかの句を列挙すると、
  やれ打つな蠅が手をすり足をする  大の字に寝て涼しさよ淋しさよ
  露の世は露の世ながらさりながら ともかくもあなた任せのとしの暮

 なるほど、松尾芭蕉は禅僧から印可を受けたとか伝えられるし、小林一茶は浄土真宗に帰依していた。従って、芭蕉の句に禅問答の匂いを一茶の句に真宗和讃の匂いを嗅ぐことは充分にあり得る話だとは思う。
しかしそれは匂いを嗅ぐていどの話であって、「禅と和讃 取り合わせと一物仕立て」だと俳句の構造と禅だの和讃だのと直接結びつけて論じるのは、いささか度が過ぎるようにも思う。理に勝ち過ぎてステレオタイプな俳句の味わい方に過ぎるのではないか? とよたよたしながら、思ってしまった。

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