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mixiユーザー(id:10383654)

2019年09月04日16:17

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唯識って? (その2)

 まずは唯識に関する総括的なお話。
唯識(ないし法相宗)の教えでは、「三時教判」ということを言います。三時教判とは、「お釈迦さんは菩提樹下で悟られて以降入寂されるまでの生涯で、三つ時期に三つ教えを示された。即ち最初の第一時に「有」の教えを、第二時には「空」の教えを、そして第三時には「非空非有中道」の教えを説かれた」ということを示した言葉だそうです。

 「三時教判」というときの教判というのは、教相判釈という言葉を略したもので、広辞苑によると「諸経典を内容・形式・説法の順序などに従って、その教えの特徴や優劣を判定したもの」とあります。
そもそもインドから中国に仏教が伝わるに際しては、膨大な数の三蔵(経、律、論)がそれぞれバラバラに、様々な時期に様々なルートを通じて流入しました。また内容面でも互いに対立するようなものも矛盾するようなものも含まれており、まさに清濁雑多という次第でした。という訳で、中国では否応なく、お釈迦さんの教えを求めた多くの僧によって色々な教相判釈がなされたという訳です。

 それは、いわば、おもちゃ箱の中の多種類のごちゃ混ぜになったジクソーパズルのピースを、絵柄や色や形などによって辛抱強く選別整理整頓し(場合によっては、自分なりに都合の良いピースをデッチあげたりもしたに違いない)、おもちゃ箱の中でそれなりの完成された姿を作り上げた、というような作業だったでしょう。

 という訳で、中国仏教の各宗派はそれぞれ自身の説にピッタリな教判を纏め上げた(でっちあげた?)という訳なのですが、三時教判というのもそのうちの一つだったのです。「五時八教」というのは天台宗の教判として有名でポピュラーなものですね。

 さて、三時教判にいう最初の第一時の「有」の説とは、「諸法(全てのダルマ)に実体を認める」との説。外道実我の執を破し(バラモン教などのような我(アートマン)は有るのだという邪説を破り)、無我を説く。「無我:我(わたしorわれ)には実体はない」ということを強く説くために、この第一時のレベルではあえて法(ダルマ)には実体が有る(あえて実法を容認)とした(我空法有)。もって、外道を排し阿羅漢への道を開く。

 次の第二時の「空」の説とは、「法は互いの依存関係(因縁)によって有ると観えるのであり、実在はしていない(実体を持っていない)」との説。すなわち、法は実在していない(空ということだ」)と説くことによって、第一時の時に容認した「実法」を破す(諸法皆空)。もって小乗の域を脱し大乗へと向かわしむ。

 最後の第三時の「中道」の説とは、非空非有の中道(有説のこだわるのは有への執着、空説にこだわるのは空への執着)を説き、有に偏ったないしは空に偏った説を打破し中道の妙理説く。

 以上、小乗といわれるアビダルマ仏教(とりわけその中でも説一切有部)の教説を釈迦生涯の第一時に位置づけ、般若経や竜樹の中論の教説を釈迦生涯第二時に位置づけ、時華厳経・法華経・涅槃経など大乗諸経が最後の第三時に位置付けられている、といことになる。

(どうも書いていて、自分自身で舌が縺れているような気分がする。多分、読み手をマゴマゴさせているように思う。まあ、今少し書き進めれば、なんとか分かりやすくなるかな、とも思う。いましばし、許されよ!)
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コメント

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年09月05日 09:13
    大昔、亡父の、あだ名が物知り博士と言われた客が、「そもそも、宗教は唯一の存在から発し、何千年かの間に人の口と手により、色々と都合の良い解釈の流れで、現在の多宗教ができた」と父に説教をしていたことが思い出されます。尤もその客が語った「唯一の宗教」とはどんなものかは、失念しています。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年09月06日 04:50
    まづは外堀ですね。これだけでも、一筋縄ではいかないのが感じられます。

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