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2018年11月16日16:46

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休講のつれづれに

 昨日は学校に出かける日だが禅の講義も倶舎論の講義も休講で朝からノンビリ。昨日から今日にかけて、午前中は前3回の禅講義の録音を聞き、午後はこのところ作っている陶芸用小道具つくり。

 陶芸用小道具は上掲写真のような土の表面に模様を描く為の物。このところハマっている縄文土器つくり、先週にやっと第三作目の成形を完了。次作は火焔型土器に挑もうかと思っているが、火焔型土器の多彩な文様をジックリと観察すると、どうしても多種の小道具が必要。でもって、土器つくりの前に小道具類を自作という訳。我ながら、ヒマやなあと思いながら、竹だの金属類を切ったり削ったり。ゴクロウナことです。
(縄文人は文様を描くのに手で紐粘土を作りながらの「ひも作り」でやっていたようだが、縮尺1/2以下の小さなレプリカを作るには、こんな道具の利用が必要なのです)

 午前中の録音聞きは、先週で道元さんの禅思想に関する講義が終わったので、私奴なりの講義の振り返りとして時間を割いた(次週以降は一休さんの禅思想)。一言でいえば、道元さんは極めてユニークかつ孤高の人らしく、その思想は難しい過ぎてとてもじゃあないが歯が立たぬって感じ。(多分そこが、「道元さんはエエナア、魅力的やなあ!」という道元オタクみたいな人が結構多い理由でもあるか?)

 とはいえ、単に「難しかった」だけでは講義を聴いた感想にはならないので、一点だけ私奴が夢想した点について、書いておこう。それは、「一切衆生悉有仏性」という場合の「悉有仏性」という言葉について。

 一般的には「悉く仏性が有る」と読んでいるのに対し、道元さんは「悉有は仏性」と読むべしとしている(漢文の読みと言う点では「悉く仏性が有る」と読むのが普通、道元さんの読み方は特異)。意味的には、前者が「生きとし生ける個々のもの全てに仏性がある」というのに対し、道元さんの捉え方は「生きとし生けるもの全体そのものが仏性(悉有=仏性)」となり、両者は大きく違う。
この「悉有=仏性」という捉え方は、どこか(否、まったく)ギリシャの哲学者プロティノスのいう「一なるもの、一者(ト・ヘン to hen):世界の根源をなす第一の最高の原理で、そこから,一ならざるもの,すなわち多者が発出する。」を思い起こさせるなあ、なんて、一人で勝手に妄想してしている。
(まあ、ホンのチョッピリ齧っただけなので、本当のところは「よく分かっていないだろうなあ」。

 余談になるが、古来「一切衆生悉有仏性」は、悉く仏性が有るんだからと「草木国土悉皆成仏」なんて言葉が中国で生まれ、さらにそれが日本では「山川草木国土悉有成仏」となる(道端の草や木や石ころにだって仏ごころがあるなんて法話には、どうにもついて行けない感じがある!)
「悟りを得ようと坐るんではない。只管打座!」って道元さんの言葉には、「悉有=仏性 ≒ 一者(ト・ヘン to hen)」との妄想の絡みで、チョッピリ分かるような気もする。

上掲写真は、次回に挑戦してみようかと考えている火焔型土器と自作した小道具

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