山形県米沢市の界隈には藤原ゆかりの苗字、例えば佐藤は結構あるようだニャ。
そして、藤原系の祭司一族である小林一族もいるニャ。
秦氏ゆかりの神社である、成島八幡宮もあるニャ。
これはひょっとしてと米沢と養蚕のつながりを調べてみると、養蚕は米沢にとって重要な産業なのニャ。
藩主上杉景勝の側近だった直江兼続は、藩の収益拡大を図るため、織物の素材となる青苧(あおそ)や絹を生む蚕の餌となる桑、染料となる紅花などの栽培を奨励したニャ。
青苧や桑や紅花は藩の特産物として、織物産地に売り出されたニャ。
じゃ、養蚕と米沢のつながりは。
米沢の「市」や町人町の発祥地ともいわれる米沢の鎮守、白子神社が面白いニャ。
米沢の鎮守とされたのは確認される範囲では、平安時代、この地方を鎮めに来た小野良春によって社殿が建替えられた時からと伝えているニャ。
白子神社は和同5年(712)の創建と、大変古い由緒を伝えているニャ。
白子神社の由緒は、こうニャ。
神のお告げによって桑林に蚕が生じ、桑を食べている光景は雪が降ったように白一色で、やがてその蚕は繭を作り、この不思議な現象により、この地を白蚕(白子に由来する)村と呼び、和同5年に神社を建て白蚕(白子)明神とした、というものニャ。
この不思議の背景には、秦氏が関わっていたのではないかニャ。
どういう繋がりや理由やきっかけがあったの。
それはわからないニャ。
ただ、米沢の近くには八谷鉱山や滑川鉱山があるニャ。
八谷鉱山は、金、銀、銅、鉛、亜鉛などを主に産出した鉱山ニャ。
滑川鉱山は、渇鉄鉱が採掘されたニャ。
殖産に関わりの深いことで知られる秦氏は、これらの鉱山に目をつけていた可能性は考えてもいいかもニャ。
とは言え鉱山経営は、軌道に乗るまでに時間もかかるし、資金も必要ニャ。
その資金稼ぎの手段として、養蚕を手掛けた…。
養蚕で得た富を背景に、鉱山開発に乗り出す目論見はあったかもニャ。
米沢織は、秦氏の目論見にまで遡るの。
じゃ、米沢牛との関わりはどうよって思うニャろ。
米沢牛の歴史は、案外浅いようニャ。
岩手県南部から鉄を運ぶのに使われた牛は、米沢地方を通る越後街道沿いの村々に売っていったそうニャ。
その牛の飼育の歴史の上に、米沢牛はあると言うニャ。
じゃあ、米沢の近くの鉱山は秦氏は手をつけなかったのかしら。
岩手県には、松尾神社が二つ祀られているニャ。
松尾神社の祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)は、元々は秦氏の神だったそうニャ。
ちなみに大山咋神は、山に杭を打ちその所有を示す神であるというニャ。
じゃあ、岩手県南部の鉄の方が採掘が容易なので米沢の鉱山は後回しになったの。
米沢近郊の鉱山と秦氏の関係は、謎のままニャ。
でも、秦氏と鉱山の関わりはおぼろげながら、見えてきたかもニャ。
米沢と秦氏、何かありそうだニャ。
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