予告編で「ウィレム・デフォーがゴッホ? なーるほどアリだな!」と膝を叩いたのだが、これって出落ち?
よせばいいのに観光地の川越へ。混んではいないが中国語が飛び交う。ええい、スカラ座に飛び込む。観客10人。そんなもんだろ。
しつこいようですが、私の危惧したのは言語問題。まあウィレム・デフォーにオランダ語やらフランス語やら喋らせるわけにもいかんだろうと、寛容な心で臨みました。
冒頭のナレーションがしっかり英語で「はい、いいですよ。それ以上望みません」となったのだが、ファースト・シーンはちゃんとフランス語。いいじゃないの。
続くオランダの画家組合の話し合いのシーンもオランダ語(たぶん)で、「そのままそのまま」と思ったが、なぜか次のシーンでゴッホとゴーギャン(ボー・ダメロン!)が立ち話するシーンは英語。なぜ?なぜ?なぜ?
舞台が南フランスはアルルに移りましても英語。
わかった、この映画は最初のシーンでロケーションとしての非英語圏を示しといて、それ以降は(頭の悪いアメリカ人のために)英語なのね、と理解した。理解してやった。
ところが途中子供たちともめるシーンでまたフランス語。一体基準はどうなってるんだ!
さらにゴーギャンに当てて書いた走り書きが「remember me」。そりゃないだろ。英語書くわけないじゃん。フランス語で書いたものを見せて字幕を出せば済む話。
真面目に作っている映画なんでしょうが、どうしてもこいうとこが引っかかる。
映画としては、中盤まで延々とゴッホが(特に野外で)絵を描くシーンなので、私としては興奮しない(興奮する映画ではない)
カメラは手持ちメインで(特に野外で)、やたらパンしたりどうかすると縦横回転させたりで、感心しませんでした。
ただ、終盤の神父(「ローグ・ワン」のゲイリー・アーソ!)との対話シーンは観ごたえあったね。
こういう実話ものというか伝記ものって「あったこと」と「あったかもしれないこと」を紡いでいくもんじゃない?(成功例は「いだてん」) そこにタランティーノは「あったらよかったこと」を付け加えたのがえらい。おっと、話がそれた。
ログインしてコメントを確認・投稿する