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2017年08月17日21:40

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小池博史のマハーバーラタ

コンテンポラリーダンスがお好きな方なら、ダンス・カンパニー「パパ・タラフマラ」のことはよくご存知かと思う。
主宰の小池博史は、以前からアジアに関心が高かったようだが、2011年の震災を機にパパタラを解散し、アジア各国のパフォーマーを集めて、『マハーバーラタ』全編の作品化に取り組み、このほど第4部をもって完結させた。

――マハーバーラタにあるものはすべてこの世にある。マハーバーラタにないものは、この世のどこにもない。
聖書の数倍の長さを持つというインドの叙事詩『マハーバーラタ』を紹介する時に、必ず言われる言葉だ。
あらすじを紹介すると、こうなる。

インドのパンダヴァ家の五王子と、コーラヴァ家の百王子は、父親が兄弟である従兄弟どうしだが、互いにいがみ合っている。
ある日パンダヴァ家の長男は、コーラヴァ家の仕組んだイカサマ賭博にかかり、国を失う。
国をコーラヴァに奪われ、パンダヴァ家の五王子と彼らの共通の妻は、13年の間、森に追放される。
13年後、王国奪還をかけて、両家は激突する。
伯父と甥が、師と弟子が、種違いの兄弟が敵味方に分かれ、復讐が復讐を呼び、戦いは最終局面を迎える――。

『マハーバーラタ』が特徴的なのは、その出自や血縁が、物語に大きくかかわっている点だと思う。

パンダヴァ五王子の母は、彼らを産む前に太陽王と契り、産まれた子は御者の家で育てられる。
長じて五王子と交わるが、パンダヴァ王家の血筋でないとして長子の扱いを受けられず、敵対するコーラヴァ家の長男の友誼を得て、コーラヴァ方の最強戦士として戦場に現れる。
嘆く母には、五王子には決して手を下さないと誓いながら。

彼らの大叔父に当たるビシュマは、若い時分に、王位継承権にからんだ不犯の誓いを立てていた。
義弟の政略結婚のために選んだ娘に許婚がいたことを知った彼は、温情で娘を国に返したものの、許婚に純潔を疑われたために引き返してきた娘に、自分を妻にしてくれと言われる。
不犯の誓いを破るわけにはいかないとビシュマに拒まれた娘は、自死して地獄の炎に焼かれ、ビシュマに呪いをかける。
彼女は若い戦士に転生してビシュマを狙うが、すべてを知るビシュマは不犯の見返りに不死の身を授かった自分を殺す方法を伝え、戦場で矢を射込ませる。

『マハーバーラタ』の実質的な主人公は、パンダヴァ五王子の三男アルジュノで、それにコーラヴァ家の長男ドゥルヨーダナをはじめとした百王子が何かと諍いを仕掛けてきて、大戦争に発展する物語だ。
しかし上述したように、中心人物以外にもこまごまとした物語が大木の枝葉のようにびっしりと茂りつながり、ある場面は『若きアビマニュの死』や『ナラ王の物語』などの独立した説話として流布したり、最終戦争を前にヴィシュヌ神の化身である武将クリシュナがアルジュノに戦いの奥義を授ける部分は、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」のように、『ヴァガヴァッド・ギーター』として独立して論じられる。

・・・と『マハーバーラタ』を語っていると、いつまで経っても終わらないのだが、この度小池博史が、アジアのキャストを率いて舞台化すると聞いて、喜び勇んで駆けつけた。
べつに、小池博史である必要はないのだ。
ダンスには別段の興味がなく、パパタラもその名前しか知らない。
30数年前にこの物語に魅せられた私は、マハーバーラタであれば、ドラマでも映画でもオペラでも何でも観に行っただろう。それだけのことだ。

そして、舞台は、思った以上に素晴らしかった。
マハーバーラタの舞台化は小池が数年前から進めているプロジェクトで、第一部はインドネシアで、第二部はカンボディアで、第三部は日本で、それぞれの国のダンサーを主要キャストにして製作してきたという。
今回の第四部は、『戦いは終わった』と題して、最終戦争の後半と、その後の彼らの行く末を描く。

小池の作る舞台は、舞踊(身体表現)中心だが、台詞も意外に多い。
今回のキャストの7割はタイ人で、ほかにインドネシア人2名、中国人1名、日本人が2名、それぞれの台詞はそれぞれの言語を使い、舞台上方のスクリーンに日本語の字幕が出るという寸法。
上演前に小池が舞台にあがり、一応字幕は出ますけど、真面目な日本人の皆さんは字ばかり追ってしまう傾向が強いので、できれば字幕はあまり見ないで舞台を見てくださいね、と話して笑いをとっていた。
マハーバーラタを全く知らない人は、律儀にストーリィを追おうとすると、多分あっという間に固有名詞で躓いて、何がなんだかわからなくなり、舞台そのものを愉しめなくなるに違いない。
筋は放り出して、彼らの身体表現に集中するのが、実際この舞台を鑑賞する一番の方法ではあるのだが、それでは「物語」に没入することを放棄することになってしまう。
マハーバーラタを裡に持たないニホンジンの、ある種の限界はどうしてもあるだろう。

とまれ、十数名のキャストは、時に激しく闘い、時に戦争はお止しと懇願したかと思うと、猿や犬になってじゃれ合い、象を御して戦場を駆け、矢を放ち、父の名を呼びながら絶命する。
日本人の一人は、バリ舞踊の型を完璧に身につけているのは明らかであったし、スキンヘッドの中国人キャストの北京語の台詞回しは、武闘派の王子を体現して見事であった。
そして物語の最後に詠われたジャワ語の嘆きの歌の、なんと哀切なることか。
このように、各国トップレベルのキャストが、ダンス、台詞、歌といった表現を高いレベルで駆使して、「この世のすべて」の物語を紡ぐ。
数日前までチェンマイやバンコックで公演していた彼らの技量とタフネス、それを支える恐らく圧倒的な稽古量の結晶が、この舞台にあった。

小池博史はこのシリーズの集大成として、再来年、より厳選したキャストで、全編の公演を目指すという。
助成金がおりるかどうかがどうやら勝負の分かれ目らしいが、このクオリティがあるのなら、2日がかりの公演に付き合ってもいいかな、と思う。
1988年、銀座セゾン劇場。
私の人生を変えた、ピーター・ブルックの9時間に及ぶ舞台の、再現を決して期待してはいけないと、自分に言い聞かせながら。

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