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2017年08月01日19:47

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In Cold Blood

1959年、カンザス州ホルカム。
と書いただけで、すぐさま一家強盗殺人事件を描いたカポーティの著作を想起する方が、皆さんの中にはきっとおられると思う。
トルーマン・カポーティ『冷血』の読書会が、都内で行われた。

殺人事件の概略はこうだ。
アメリカ中西部で農園を営む一家が二人組の男に襲われ、寝室や地下室で喉を掻き切られ頭を銃で撃たれて、在宅していた親子4人全員が死亡した。
犯人が盗んだのは、被害者のポケットや財布を漁って見つけた数十ドルの現金と、ラジオのみ。
逃亡した二人は、その後各地で小切手詐欺を働いたり、ホテルに荷物を置いたりといった小さな痕跡をのこしていたが、刑務所で事件のニュースを聞いたかつての仲間が、以前の雇い主であった被害者一家が裕福だったことや、家の間取りについてなどを、犯人の一人に詳しく教えたことがあると情報提供し、刑事らが丹念に足跡をたどったすえに、4ヵ月後に逮捕された。
精神鑑定なども行われたが、事件の5年後に、二人はそろって死刑になった。
事件後に綿密な取材を行って、収監中の犯人とも交流のあった作者も、刑の執行に立ち会った。


読書会に集まったのは、20代後半の男女と、30代半ばが二人、そして私と同世代がもう一人という6名。
カポーティなどの英米文学より、森鴎外、武田泰淳、三浦哲郎、井上靖などを好むメンバーだった。
自分に合う読書会を探す中でこの会を知って来てみた、という人もいた。

さて、主宰者が気にしていたのは、次の2点。
これは小説といえるのか。
そして、カポーティがこれを書いた動機は何か。

特段のファシリテータを置かないざっくばらんな読書会の常として、会は必ずしも主宰者の意図どおりには運ばない。
カポーティの視点より、やはり犯人二人組――チェロキーの血を引くペリーと、両親と暮らすディックの、犯罪そのものの動機に関心が集まった。

犯罪を繰り返して刑務所に出たり入ったりしている二人は、まともな稼業に就いたこともなければ、まとまった金を手にしたこともない。
並以上の知能を持ち、二度の結婚暦もあるディックと、極端にちいさな下半身をもち、大量の本やガラクタを持ち歩く、夢見がちなペリー。
二人が計画を立てて押し入ったクラッター家は、裕福ではあるが現金を持たない主義で、二人が得ていた情報に反して、立派な家には金庫はおろか贅沢な品も置いていなかった。
当初から生き証人を遺さないつもりであった二人は、一家を惨殺し、逃亡後も現金がないため詐欺を繰り返し、小さな金を手にしては、次の目的を漠然と夢想する。
メキシコへ行こうか、金を掘ってみるか、一旦帰って親父に顔を見せておいた方がいいな・・・。
仮に、クラッター家でまとまった現金を奪えたとしても、その先は知れたものだったろう。
希望も展望もあったものではない、二人の先行き。
翻って、「何があっても話し合いで解決してしまう」メソジスト派コミュニティのリーダーとして人望篤いクラッター氏と、「どんなに忙しくても他人のための時間を見つけることができる」聡明な娘ナンシー。
一家が見舞われた惨劇に対して、犯人の「計画的犯行」の、なんと卑小で愚かしいことか。

参加者の一人は、ディックとペリーは退屈だったのだろう、それに尽きるのでは、と述べた。
「退屈だったから殺した」というのは、ひどく文学的な言い回しに聞こえるが、事件の前後の二人の行動を見ていると、それこそが実も蓋もない現実ではないかと納得してしまいそうになる。
(我々は、何かで気を紛らわしていないと、ついには人を殺してしまうのか?)

トルーマン・カポーティは、事件の舞台となったホルカムという町の地理的描写に始まり、惨劇に見舞われる前の一家の日常と、彼らをとりまく町の人々――郵便局員、数マイル先に住む日系人夫妻、町に一軒だけあるガソリンスタンド兼カフェの主人、ナンシーのボーイフレンド、クラッター農場の雇い人ら――を細かく描いてゆく。
同時に、ディックとペリーがこの計画のために合流して必要な道具を買い揃えるようす、そして二人の生い立ちについても多くのページを割き、先を急ぎたい読者をやきもきとさせる。
「事件が起きるまで読み進めるのがしんどかった」という感想も聞かれたが、作者が事件そのものを描きたかったわけではないことは明らかだ。
事件の報道を聞いて、カポーティは、作家としてこの事件の得体の知れない謎に取り組みたいという衝動に駆られ、取材を進めるうちに、犯人、特にペリーの虚言に振り回されながらも魅せられていったように思える。
四人の被害者に二人の犯人、しかし「誰が誰を殺害したのか」は、結局のところ、四人ともペリーが手を下したように語られるものの、真実はわからない。(両名は同じ日に死刑を執行されている。)

私はこの本を読んで、アメリカ中西部のどこまでも続くプレーリー地帯(草原)と、そこに暮らす人々、出かける時も家に鍵などかけず、隣人愛に溢れる一方で、メソジストとローマン・カソリックは厳密に棲み分ける、といった独特の風土が、この作品の大きな主題のように思われた。
有色人種はほとんど現れず、それぞれのコミュニティで、人々は大抵のことに充足しているように見える。
あれから半世紀して、彼らはトランプ大統領の出現を、はたして支持したのだろうか。

カポーティが人々を群像劇のように執拗に書くのは、こうした土地の人々を描きこまないことには、この作品そのものが立ち上がらないと考えたからではないか。
事件については、調べれば調べるほど、玉ネギを剥き続ける作業に似て、最後には漠とした虚無感に行き着くばかり。
結局何も明らかにならないという焦りを、作者は感じたと思う。
我々読者が感じる圧倒的な虚しさは、作者の焦りとも関係があるように思った。


解説によると、カポーティはこの作品で「ノンフィクション・ノヴェル」という文芸の新ジャンルを切り開いたとされているそうだ。
「これは小説といえるのか」と、読書会の主宰者も問うていたが、今やこの種の作品は巷にあふれ、そうした議論はつねに行われている。
私はこうした作品をどのジャンルよりも好むが、創作箇所の有無や割合などについての議論にはほとんど関心がないし、読んで戸惑うこともない。
たとえ新聞記事であったとしてもナントカ・ノヴェルであったとしても、誰かの手によって書かれ、読者に読まれた瞬間に、事実であろうが捏造であろうが印象記であろうが、ボールは受け手のコートに入るから、と考えているからかもしれない。

とまれ本作は、不可解さばかりを読者に投げかけて、結びの章も、あまり成功しているとは思えない。
にもかかわらず、この作品は、1959年のあの事件から独り歩きするかのように、今も手に取られ、読まれ、議論され続けている、この日のように。
カポーティはこれを書き上げた後、長編を書けなくなってしまったと言われるが、一人の作家を潰してしまうだけの不条理の力を、この事件は纏っていたということなのだろう。



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