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2017年07月26日21:28

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黒潮に乗って日本海へ

奈良女子大副学長の小路田氏は、北篠氏より長く喋った。
そして配布された紙資料は、北篠氏と対照的に、ほぼ文字のみ。
(しかし図や写真をたくさん載せた北篠氏がwordで、文字ばかりの小路田氏がpptで作っているというのがなんとも可笑しい。)

邪馬台国論争を少しでもかじったことのある方なら、あの論争がかくも続くのは、元ネタである『魏志倭人伝』の記述が曖昧だから、その解釈次第で説が分かれるのだということはご存知だと思う。

邪馬台国へは、帯方郡から船で南にどのくらい、東へどのくらい、韓国、対馬、伊都国などを経由してさらに東へ100里、水行10日、陸をひと月、みたいな風に行き方が書いてあるのだが、これを正直にたどるととんでもない場所に出てしまうので、どのように読めばつじつまが合うか、学者そして市井の古代史研究家たちが百家争鳴かまびすしいわけだ。
『魏志倭人伝』のどこかの記述が間違っている、あるいは文字通りの意味ではない、地名の解釈が違う、単位が違う、ナドナド、その読み方で九州説と近畿説に大きく分かれ、両陣営の戦いは果てしがない。
最近は、奈良・桜井市の纏向(まきむく)遺跡が卑弥呼の墓だという説が有力視され、九州説は土俵際に追い詰められた感があるが、東京は学界の勢力図から、もともと九州説が強かったらしい。
しかしこの日、「九州説を支持する人!」と小路田氏が呼びかけると、その数はまばらだった。
なにしろここ奈良まほろば館には奈良好きが集っているわけで、よほどの理由がない限り、この場に居る人は奈良のどこかが卑弥呼の里だと考えているはずだ。

ところで私は、先年まさにその纏向遺跡や箸墓(はしはか)古墳、唐古・遣(からこ・やり)遺跡のセミナーを受講しており、結果九州説にはもはや一部の勝ち目もなさそうだという認識に至っている。
長崎で育ち、九州を愛するわたくしは、この板ばさみの状況で、アタマは近畿、けれどココロはあくまで九州ということで、実に苦しい妥協を強いられているというわけだ。



さて、小路田氏の考えはどうか。

奈良女子大の小路田泰直(おじた・やすなお)氏は、『魏志倭人伝』は、同時代に書かれた極めて詳細な記録なので、素直に読むべきだと主張する。
「もし間違っている点があるならば、それは単純な間違いではなく、理に適った間違いである」と。
『魏志倭人伝』にある、「南、投馬国に至る水行二十日」「南、邪馬台国に至る。女王の都する所、水行十日陸行一月」の「南」の使い方が、中国の史書にまま見られる「東」の認識と類似していることから、古代中国にとって、その方向は南というより東に近いのではないか、と云うのだ。

ここは、聞いていてなんだかケムにまかれたようで釈然としない。
ちょっと苦しい解釈ではないかという気がするけれど、小路田氏の考えではそういうことになるようだ。

そして、最初の「水行二十日」は、よく云われる北九州から瀬戸内海へ抜けるルートではなく、日本海を行くのではないか。
次の「水行十日陸行一月」は、若狭湾から由良川を内陸に遡り、分水嶺から今度は大阪へ向け川をくだり、そこから奈良盆地へ内陸を進む。
こう読めば、奈良盆地へちょうどいい感じに着くと思いませんか?

そう、「南」を「東」と解釈し、水行のコースを瀬戸内海でなく日本海ととらえれば、『魏志倭人伝』はちゃんと読み解ける、それが小路田氏の主張だった。
そして、この「東」の認識は、小路田氏の黒潮思想につながってゆく。
・・・らしいのだけれど、セミナーの後半のこの話は、とてもついてゆけない難しい論考だった。
「モロコシ」の概念、呉との係わり、そういったものを考えつなげてゆくと、やがてヤマトの国と黒潮が結びつき、紀伊半島中央部に複合文化が成立した証になり、よってヤマトは、中華文明の末端・辺境ではなく、複合型文明の独自の世界ということができるのです、というのが結論だったようだ。
あぁぁ、むつかしいワ。

そしてどうやらこの主張は、『日本史論 ―黒潮と大和の地平から』という、奈良女子大学叢書として今年刊行された氏の著書の内容であったようだ。
3,780円もしますんでね、多分売れないと思います、といいながら、受講者の興味を当て込んで、販売用に数冊持ち込んでいたようだ。
こういうの、大いに結構だと思う。
この本は我が家の近隣の公立図書館にも蔵書がないようなので、大手の書店の学術書の棚に行かないと、実物を見ることもできないだろう。
せっかく面白い話を聞かせてもらったので、せめて図書館に購入のリクエストくらい出してみようかな。


このあとは小路田氏と北篠氏の丁々発止の遣り取りに移り、我々は時おり笑い転げながら、二人の話に聞き入った。
しかし話はあくまで高度で、学生ではない自分には基礎知識がないために、極めて断片的な理解にとどまらざるをえない。
カギは紀伊半島の中心部、熊野のうっそうとした森林世界を東西に走る紀ノ川周辺の地形にもあるようだ。
古代の都市を維持するためのエネルギー源としての炭を作るために森を切って切って切りまくり、植林を重ねた人工的な熊野の森と、単に切りまくって終わった吉備や大津のハゲ山の違い。
「あをによし奈良の権威を象徴するために、周囲をハゲ山にしておくわけにはいきません」という北篠氏に対し、「長いこと京都に住んで、坊さんたちの遊び方のむちゃくちゃぶりを見てますとね、あの人たちがそんなん大事にしてるなんて、私にはとうてい信じられません」と舌鋒するどく切返す小路田氏。
ちなみに、古代のエネルギー需要についての研究は、これまでほとんどなされていなかったそうだ。

また、紀ノ川(吉野川)添いに点在する遺跡の中には、従来上座とされていた北側より南側が高いものがあり(「南側で小便をすると、北に流れてしまうわけですね」と北篠氏)、南方の熊野の山々が、風水でいう主山・祖宗山になぞらえられているふしがある、という考えも披露された。
これは目下、北篠氏の大きな研究テーマであるようだ。
この紀伊半島を東西に走る断層について、二人の考えはかなり違っているようだったが、このあたりで時間が来てしまった。


日本の神話に南方系と北方系の混合が見られること、また中国からの伝来ではなさそうな南方系の文化は、もっぱら黒潮に乗ってきたということ、そしてその黒潮は、日本海を、瀬戸内海を、熊野灘を、房総沖を洗い流れ、日本列島に極めて重大な影響を与えたこと。
こうしたことの多くは、ろくに勉強をしたことのない私にはほとんど初めて聞く話だった。
それを、古文書や遺跡、地形などを参照しながらあきらかにしようとしている二人の学者の熱のこもった話は、難解ではあったものの実にエキサイティングで愉しかった。
さぁ、この日もらってきた材料を、どうしようかな。
次にどんな本を読めばいいか、ちょっと考えてみよう。



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