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2016年01月19日22:53

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行方昭夫 『英文の読み方』

行方昭夫 『英文の読み方』
2007年05月22日 第1刷発行
岩波新書 1075


著者は1931年東京生れ。1955年東京大学教養学部イギリス科卒業、東京大学名誉教授、東洋学園大学名誉教授。

 クローバー『イシ』、ジェイムズ『ある婦人の肖像』、モーム『人間の絆』、『月と六ペンス』など多数の訳書がある。(以上すべて岩波書店)

 著書は『英文快読術』(1994年「岩波同時代ライブラリー」、2003年「岩波現代文庫」)、『実践英文快読術』(2007年「岩波現代文庫」)など。

 行方教授の『英文快読術』が出たとき、買つてすぐ読んだが、ひとことで感想を言へば「教養派の反撃だなあ」といふものであつた。

 ここで「教養派」といふのは、明治以来脈々と続いてきた、「西洋人の生き方、考へ方を学ぶために西洋の書物を原文で精読する」習慣を身につけた一連の人々を指す。1945年の日本敗戦までの知識人の大部分がこのグループに属してゐただらう。

 話を東大(東京帝大)英米文学関係に限つていふと(教養部を含む)、まづ念頭にうかぶのが漱石夏目金之助である。ただ、漱石自身は早くに東京帝大講師を辞して朝日新聞に入社してしまつたから、やや主流をはづれた。そこから下つて、著者が大学に入学したころの教授陣でいふと、中野好夫、朱牟田夏雄、上田勤、西川正身、平井正穂などが挙げられるだらう。ただし中野も途中で英文科主任教授の職を辞してしまつた。

 著者が英文精読の重要さを教へられた恩師として本書で名前を挙げてゐるのは、上田(1906−1961)と朱牟田(1906−1987)の二人である。上田は50代半ばで早逝したが、行方教授は1990年、上田の旧著の抜粋を第一部、ヘンリー・ジェイムズの短篇「五十男の日記」の自身による読解を第二部とした共著『英語の読み方、味わい方』 (新潮選書)を刊行してゐる。

 さて、『英文快読術』は、しばらく前から始まつてゐた「文法、訳読重視の英語教育は時代遅れ」、「英語は話せなければならない」といふトレンド(これを「実用派」と言はう)に対する教養派からの巻き返しの動きだと小生はとらへた。

 『英文の読み方』も同じ路線の延長線上にある。著者の主張を簡潔に述べると、「正確な日本語に訳せる」ことこそが最も重要だといふことにある。

   …ざっと読み流して大まかな意味を取り,曖昧な訳が出来たとしても,それで英文が
  「読める」とはとてもいえないのです.コンテクストを把握した上で,書き手の気持ちや言
  外に込められた意味など英文の裏の裏まで読み解き,それを活かした日本語に直せる
  力こそ  が,総合的な英語力の何より重要な基礎だと確信するようになったのです.

   その後,大学の教師として何十年も英語を教えてきましたが,その確信は強まるばか
  りです.私の見てきた限り,本当の意味で読む力のある人は,必ず他の技能にも対応
  出来ます.英語の4技能というものは相互に関係が深いので,読む力が中途半端な人
  が会話力だけ超一級だとか,会話は全く出来ないけれど読みなら問題なしということは,
  余程の例外を除いてあり得ないと思います.
  (本書5ページ)


 この考へ方(とくに前段部分)にあへて意見を述べれば、これは英語よりも、日本語の方が重要だと言つてゐるに等しいのではないかといふことである。すなはち著者の姿勢がやや「翻訳」に執しすぎてゐるのではないかといふことだ。

 小生がここのところ日ごとに強く感じることは、外国語の文章の翻訳を読むことは、結局は訳者の書いた日本語の文章を読んでゐるといふ、当り前といへば当り前のことである。人は通常、翻訳者のことなどには特段の注意を向けず、ただ「ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』を読んだ」とか、「ヘンリー・ジェイムズの『ある婦人の肖像』を読んだ」と言ふのみであらう。だが中野好夫訳の『ガリヴァー旅行記』を読む人は、スウィフトの文章ではなく、中野好夫の文章を読んでをり、平井正穂訳の『ガリヴァー旅行記』を読む人は、平井正穂の文章を読んでゐるのである。同様に、齋藤光訳の『ある婦人の肖像』を読む人は、ジェイムズの文章ではなく、齋藤光の文章を、行方昭夫訳の『ある婦人の肖像』を読む人は、行方昭夫の文章を読んでゐるのである。(ちなみに、上記4人のうち、中野、平井、齋藤は、中野の前任の東京帝大主任教授、齋藤勇の弟子、女婿、子息である。なんか、気持ち悪い世界ぢやありませんか。)

 例を挙げてみよう。サマセット・モームの『お菓子とビール(麦酒)』冒頭の英文と3種類の訳文を示す。


  I have noticed that when someone asks for you on the telephone and, finding you out,
 leaves a message begging you to call him up the moment you come in, as it’s important,
the matter is more often important to him than to you. When it comes to making you
a present or doing you a favour most people are able to hold their impatience within
reasonable bounds.
 (W. Somerset Maugham: Cakes and Ale, Vintage Classics)


   かねてから気がついていたことだが、誰かが留守中に電話をかけてよこして、帰ってきた
  らすぐに電話をかけてくれ、大切な用件なんだからと言伝(ことづけ)ておくような場合には、
  その用 件というのは、むしろその男にとって大切なので、われわれにはむしろ大切でない
  場合が、かなり多いものである。これが贈り物でもしようとか、恩に着せてやろうとかいうよ
  うな場合だと、たいていの人はむちゃな慌(あわ)てかたはしないものである。
  (上田勤訳『お菓子と麦酒』、「新潮世界文学31 モームII」1968年8月刊)

   誰かが電話をかけてきて、こちらが留守とわかると、「お帰りしだい、すぐお電話をくださ
  い重要な用件ですから」とことづける場合は、えてしてその用件が重要なのは、こちらにと
  ってではなく、あちらさまにとってであるようだ。贈り物を下さるとか、何か親切なことをして
  下さるという用件なら、たいがいの人は、はやる気持をある程度までおさえることができる
  はずだからだ。
  (厨川圭子訳『お菓子と麦酒(ビール)』、角川文庫。初刊1968年12月、加筆修正版2008
  年 4月)
 
   留守をしているときに電話があり、ご帰宅後すぐお電話ください、大事な用件なのでとい
  う伝言があった場合、大事なのは先方のことで、こちらにとってではないことが多い。贈物
  をするとか、親切な行為をしようという場合だと、人はあまり焦らないものらしい。
  (行方昭夫訳『お菓子とビール』、岩波文庫、2011年7月15日第1刷、2013年2月5日第2
  刷)

 モームの英文は、まあ平易な部類に属してゐて、へたをすると中学生でも読めさうだ。訳文はどれも達意と言つてよからうが、印象はだいぶ異なる。目立つのは、いづれの訳文でも主語 ”I” を省略してゐること。上田訳では冒頭に「かねてから気がついていたことだが、」との文句を置くことで、語り手の「わたし」の意見であることを暗示してゐるが、厨川訳、行方訳では完全に消し去られてゐる。最新の行方訳がもつとも簡明平易である。ともあれ、どの訳者もモームの平明な英文の意味を、平明な日本語で十分に伝へるために意をつくしてゐるが、その実際の現れ方には、上田、厨川、行方のそれぞれの個性が出てゐると言へよう。なほ、このすぐ後に出てくる部分について、行方訳が第1刷で犯した誤訳については後述する(第2刷で訂正)。

 行方教授が『英文の読み方』で理想とするのは、このやうな文章の形により、英語の原文を日本語で再現することなのだらう。しかしそれは英語を読んでゐることになるのか。読むとは一義的には、「頭の中で著者の述べたことを再現する」ことであり、「母語の文章の形で再構成する」ことではないのではないか。といふのも先ほども述べたやうに、「外国語の文章の翻訳を読むことは、結局は訳者の書いた日本語の文章を読むことだ」との感が、小生の中で強まつてをり、それは原著者のものといふよりも、訳者のものである割合が大きいのではないかと考へてゐるためだ。

 行方教授は2014年に『英会話不要論』(文春新書)、2015年に『東大名誉教授と名作・モームの『赤毛』を読む 英文精読術』(DHC)といふ著書を世に問ふた。小生、どちらも未読であるが、現在は後者を読むために準備中である。

 ますます活躍中の著者であるが、ひとつだけ不安要素を挙げると、すでに80代半ばであることで、いくら頭脳明晰な人でも、80歳を超えると思考能力は大きく衰へるであらう。国語学者の小松英雄(1929−)が、80代半ばの2014年に出した『日本語を動的にとらえる: ことばは使い手が進化させる』(笠間書院)について、ジュンク堂で開いたセミナーをパソコンで視聴したが、いやはや大変な代物であつた(本は未読)。実は著者も、上記の『東大名誉教授と…』刊行にあたり、同様のセミナーをジュンク堂で行い、これもユーチューブなどで視聴できる(2015年12月1日収録、https://www.youtube.com/user/junkuTV/videos)。こちらは危惧してゐたやうな惨憺たるものではなく、ひと安心した。それでわかつた著者の人柄は、冷静沈着な大学教授といふよりは、やや軽率に見えるほど気のいい老紳士といふものだつた。

* * *

附記 行方訳『お菓子とビール』における誤訳について

 冒頭の文章に続き、語り手のアシェンデンが夜のパーティに行く前にいつたん下宿へ戻つた部分の描写がある。下宿のおかみのミス・フェロウズとの短いやりとりがあつてから、おかみがどうしたか。原文および翻訳を順に見ていく。


She pursed her lips. She took the empty siphon, swept the room with a look to see that it
 was tidy, and went out.


  彼女は口をとがらした。から(傍点つき)になったサイフォンをとりあげ、部屋のかたづき工
 合をすばやく見てとると、出ていった。(上田訳)

   おかみは口をとがらせた。からのサイフォンを取りあげると、部屋が整然としているかどう
  かひとわたりながめてから、部屋を出た。(厨川訳)

   おかみは口を一文字に結んだ。空になったサイフォンを取り、部屋の様子を確認して出て
  いった。(行方訳第2刷)

 ところが行方訳の第1刷では、後半部分が「空になったサイフォンを取り、丁寧に部屋を掃除して出て行った」となつてゐたといふ。2014年の『英会話不要論』の中で、著者自身が誤訳であることを認めてゐる。


  …私が最近犯した誤訳について正直に述べましょう。誤訳とはどういうものか、どのようにし
 て起きるのか、興味を持つ方もいるでしょうから。
   2011(原文表記は二〇一一)年にモームの小説『お菓子とビール』を翻訳刊行しましたが、
  冒頭の部分で恥ずかしい誤訳をしてしまいました。すぐに気づいて、第二刷では直っていま
  すが、ここで書いておきます。

  (中略。小説の場面の説明と英語原文、第1刷と第2刷の翻訳提示。「字数の関係で簡潔に訂
  正」との注記あり)
   
   念のために説明しますと、問題は、sweptに「見渡す、見回す」という意味があるのを失念し
  た私が、頻度の高い「掃除する」という意味だと勘違いしたことにあります。
   実は、この小説には既訳がいくつかありました。既訳がある場合、参照するのが普通です
  が、上田勤は、私が身近にお世話になった恩師でして、もし参照すれば、引きずられて模倣
  しそうになり勝ちなので、敢えて見ないでいました。自分の訳書が刊行されてから、初めて見
  たのです。冒頭の部分を読み、途端に私は「あっ、間違えた!」とsweptの意味の取り違いに
  気づきました。
   皆さんの中には、状況から判断して、「掃除した」でも正しい、と思う方もいらっしゃるかもし
  れません。しかし、with a look 「目で」とあるので、そうは取れません。さらに、彼女は下宿
  の経営者で、メイドさんも使っていますし、今より階級制度が厳しかった時代だというコンテ
  クスト(前後関係)も考慮すべきでした。
   (同書144〜146ページ)

 なほ、この点については刊行直後にアマゾンのレビューで指摘されてをり、それを読んだ小生は、「行方先生、大丈夫だらうか」と思つたものだ (1)。年齢についての危惧の念も、じつはこの指摘に由来する。

(1) 「ドリッフィールド」といふ投稿者名によるレビューの冒頭を、以下に引用する(投稿日は2011年9月15日)。なほ評価は星3個である。

  タイトルは「新訳、期待して読み始めたけれど」

  2ページ目で早くもつまずく。「(おかみは)丁寧に部屋を掃除して出て行った」。主人公のア
  シェンデンは、夜の外出前に自室でくつろいでいるのに。そこを見計らって掃き掃除(swept)
  をする おかみの下宿など、さっさとひきはらったほうがいいぞ、アシェンデン。ここは「部屋
  をぐるりと見渡して(swept the room with a look)、きちんとしているのを確認して出て行っ
  た」と、素直に訳してほしかった。こうなると、厨川の旧訳で気になったところも確認したくな
  る。

(了)


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