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2014年12月19日04:39

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宮下眞二 『英語文法批判』 (IX) 6



 4章 「ever」と5章「不特定代名詞とeverとの複合代名詞」は、代名詞論の各論と見ていいので、ここでは省略する。

 最後の6章「冠詞」に入る。
 「冠詞は内容が極めて抽象的であり、かつその現象が極めて多様であるために、その本質がつかみにくい」とした上で、宮下は以下のやうに書く。

   「先づ冠詞の歴史を振返つて置かう。冠詞には定冠詞 (the) と不定冠詞 (a(n)) とがある。the は古英語の指示代名詞 se* (現代英語のthatに当る)に由来し,a(n) は古英語の数詞 an* (現代英語のoneに当る)に由来する。冠詞は現代英語では極めて広く用ゐられ,かつ多様な用法を展開するに至つてゐる。(* 引用者注。どちらにも母音の上に長音を示す横棒が乗つてゐる)
   次に冠詞にまつはる諸問題を概観して置かう。冠詞そのものは実は単純な語であるが,単純なるが故に広く他の複雑な語と組合せて用ゐられるから,冠詞の正体を明かにするには,冠詞にまつはる諸問題の解明を併行して進めなければならないからである。
   第一に,冠詞は実体の単位性と不可分の関係にあるから,英語に於る単位性の認識の特徴を明かにする必要がある。
   第二に,冠詞は殆ど常に名詞と共に表現されて居り,冠詞の正体を明かにするには,名詞,特に所謂抽象名詞,物質名詞,集合名詞及び固有名詞の内容の検討が不可欠である。
   第三に,冠詞は普遍的表現として用ゐられることがあるから,普遍的表現の検討が必要である。」(220-221頁)

 かうして、「1節 英語の単位観と名詞及び冠詞との関係」の考察に入る。

   「冠詞は大抵は名詞に添へて用ゐられるが、名詞が常に冠詞を取る訳ではない。物質名詞、抽象名詞、複数名詞及び集合名詞は普遍的表現として用ゐられた場合には冠詞を取らない。例――
   Blood is thicker than water. 血は水よりも濃い。
   Speech is silvern, silence is golden. 弁舌は銀,沈黙は金。
 Children are poor men's riches. 子供は貧者の富。
   People will talk. 人の口に戸は立てられぬ。
   固有名詞も冠詞を取らない。例――
   John, London, Mt. Everest 
   それで冠詞にまつはる問題の第一は,名詞が冠詞を取る場合と取らない場合との差別の根拠は何かと云ふことである。
   両者の差別は文法上の数の観念を適用できる名詞即ち可算名詞と,それが出来ない名詞即ち不可算名詞との差別と密接な関係にある。即ち可算名詞は不定冠詞を取り得るのに対して不可算名詞は不定冠詞を取り得ないのである。可算名詞にはboy, dog, picture, word, day, ideaなどの普通名詞が含まれる。不可算名詞にはmusic, time, loveなどの所謂抽象名詞やwater, butter, airなどの物質名詞が含まれる。
   名詞が冠詞を取る場合と取らない場合との差別と,可算名詞と不可算名詞との差別とは,英語では実体の単位性をどう認識し,どう表現してゐるかと云ふ問題と密接不可分の関係にある。英語の単位観がこれらの差別の土台を成してゐるのである。」(221-222頁)

 「2節 英語の単位観」は英語特有の単位観の考察である。

   「私達が「一人の人」とか「一匹の犬」とか「一本の花」とか「一冊の本」とかと云ふ時には,対象たる人や犬や花や本を,一つの単位を成すものとして捉へてゐる。この単位の認識は対象たる実体が他の同種の実体と共通する個体としての形式を持つてゐることに基く。或る種類の実体に特有の個体としての形式を単位性と名付けよう。単位とは単位性の認識に外ならない。
   単位性は一つの個体に一つとは限らない。現実の事物は立体的であり多様な側面を持つてゐるから,どの側面を取上げるかによつてそれに対応する単位性が決る。例へば人を人として取上げる場合には,その単位性は人一般に共通の個体としての形態であり,人を動物として取上げる場合には,動物一般に共通の個体としての形態である。(一部略)
   また単位性は常に明瞭とは限らない。人や犬や花や本ならば,その個体の特徴が明瞭であるが,個体の特徴が明瞭でない物体もある。例へば,板と棒とは種類を異にするが,幅と厚さが近似した物体を板と呼ぶべきか棒と呼ぶべきかは,判断に迷ふ所である。このやうに単位性の形態は様々であり幅があるから,それを人間がどう捉へるかに依つて,人間が物体を単位として認識する時の単位のあり方が変つて来る。
   また或る種の物体では,その形態が余りにも多様なので,単位性を認めないこともあり得る。また単位性は特殊性の一種であるから特殊性を捨象して極めて抽象的に実体を取上げる場合には,単位性も捨象される。」(222‐223頁)

 このやうに、現実の個体に特有の形式を「単位性」とし、それに対する人間の認識を「単位」とすることにより、対象(単位性)−認識(単位)−表現(単位の表現)といふ過程的構造を一貫させようといふわけである。

  「単位は究極的には実体のあり方即ち実体の単位性に基いてゐるが,直接には,人間が単位性をどう捉へるか,即ち人間に依る単位性の認識に規定されてゐるのである。だから,言語の対象である現実の実体のあり方は世界のどこでも同じであるが,それの捉方は人間に依つて異り得るのであり,その結果民族に依つても異り得るのである。各民族の中では共通の単位観が歴史的に成立し,それはそれぞれの民族語のあり方を規定することになる。英語の単位観も英語を創造したアングロ・サクソン民族の単位観の反映であり,英語の規範として成立してゐるのである。」(223頁)

   「英語に於る単位は,同種の個体にほぼ(、、)共通の形態のことである。ほぼ(、、)共通といふ点が肝腎である。各個体が余りにも懸離れた形式を持つてゐる時には,共通の・単位たるに相応しい・形式即ち単位性を持たないと見做されるのだ。かくして水(water)やバター(butter)や空気(air)などは単位性を持たないと見做される。これらを表す語が所謂物質名詞である。……
   単位性は日常的・経験的に観察する限り,目に見え手に触はれる物体の単位性として存在するから,複雑な事態を抽象的かつ実体的に把握した場合や,属性を実体的に認識した場合には,単位性は無いと見做される。かくして平和(peace)や親切(kindness)や到着(arrival)や少年期(boyhood)などは単位性を持たないと見做される。これらを表す語が所謂抽象名詞である。
   以上、単位について吟味した。この単位を表すのが冠詞である。定冠詞)も不定冠詞も単位性の認識を内容の一部としてゐるのである(以上の2文で傍点省略=引用者)。単位性の外の冠詞の内容については5節で詳述する。
   所謂抽象名詞と物質名詞とは単位性を持たない対象を表すから,単位性を表す冠詞は取らない。これとは反対に複数名詞と固有名詞とは,単位性を名詞の内容の一部として含んでゐるから,単位性を表す冠詞は取らないのである。
   複数名詞は,複数認識自体がそもそも各個体の単位性の認識の積重ねであるから,単位性の認識の一種である。それ故に単位性を表す冠詞は取らない。数<一>の意味をも併せ持つ不定冠詞を取らないことは勿論である。
   固有名詞は実体を固有性といふ極めて特殊な特殊性に於て捉へるから,単位性及び個別性の認識を含んでゐる。それで単位性や個別性を表す冠詞を取らないのである。」(224‐225頁)

 英語の冠詞は英語の単位を表す。定冠詞も不定冠詞も単位性の認識を内容の一部として含む。とりあへずこれが宮下の結論である。

 筆者はここまで引用してきて、ある疑問にとらはれた。引用の最後、複数名詞と固有名詞が冠詞を取らない理由の説明についてである。宮下は、複数認識はそもそも各個体の単位性の積み重ねであるから、単位性の認識の一種であり、それゆゑに単位性を表す冠詞を取らないと主張する。しかし、これでは事態を十全に説明したことにならない。単位性の積み重ねである複数性を認識した上で複数名詞で表現するのはもちろん、それとは別に、その前や後に(英語には存在しないが)複数不定冠詞で表現する言語(たとへばフランス語のdes)も存在するからである。固有名詞も同様で、宮下によると、固有名詞には単位性および個別性の認識が含まれるから、単位性や個別性を表す冠詞を取らないといふのだが、「固有名詞に単位性および個別性の認識が含まれる」ことと、「冠詞を取らない」ことを直接に結びつけることはできない。固有名詞とともに冠詞を用ゐて、個別性や特殊性を強調することが文法化してゐる言語の存在も想定できなくはないからである。なほこのことは、宮下が後に論ずる、「固有名詞に不定冠詞や定冠詞がつく場合」とは異なる次元の問題である。

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