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2014年12月19日04:28

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宮下眞二 『英語文法批判』 (VII) 5B

        5B

 三浦の『弁証法はどういう科学か』(1968年改訂版、講談社現代新書)から例を引かう。三浦は根本進の新聞マンガ「クリちゃん」の一枚を掲げる。クリちやんが苗に水をやつてゐる場面で、クリちやんの頭の上には吹き出しがあり、中ではひまはりの花々が咲いてゐる。つまりクリちやんは、まだ咲いてゐない苗に水をやりながら、頭の中で花が咲いてゐる場面を想像してゐる。

 そこで三浦は言ふ。

   「いまクリちゃんは、目の前の苗を見ながら、未来の花の咲いたときのありさまを想像しています。未来のありさまは、クリちゃんの頭の中に創造されているのですが、クリちゃんは頭の中でそのありさまを「見て」います。「見て」いるからには、当然そこに見る目があるはずです。見る目を持つ人間がいるはずです。ですから、よく考えてみると、現実の世界で苗を見ている現実のクリちゃんと、想像の世界で花を見ている想像の世界の中のクリちゃんと、クリちゃんが実は二重にいるわけです。このように、想像することは、現実の世界以外に観念的な世界をつくりだして世界を二重化することですが、それだけではなく、同時に現実の自分以外にその観念的な世界の中でそれに相対している観念的な自分をつくりだす自分自身の二重化をも意味します。過去の回想であろうと、科学的な想像であろうと、非現実的な空想であろうと、この二重化が起る点ではかわりありません。この観念的な自分は、必ずしも現実の自分と似た存在ではなく、人間以外の存在にも、あるいは「神」にもなれます。けれども、それは現実の自分とまったく無関係ではなく、その性格は現実の自分の変容にすぎません。夏目漱石の小説『吾輩は猫である』では、作者は観念的に猫となって活動しています。これも、そこらにいる猫ではなくて、漱石的に考える猫です。現実の世界の中の漱石はやはり人間で、空想の世界を小説に書いているのですが、空想の世界の中では彼は猫としての体験と思索に基づく生活記録の書き手になっています。現実の世界では、苦沙弥先生も細君も迷亭もすべて漱石の創造であり漱石が関係づけ漱石が動かしたものでしかありませんが、空想の世界の中ではこれらはすべて客観的に実在する客観的な世界の一部として自分の前にあらわれます。それで、漱石はまず現実の世界の人間として登場人物を創造し事件の構成を考えだし、次に自分の創造した空想の世界へはいりこんで猫としてそれらを体験し執筆し、ふたたび現実の世界の人間に戻ってさらに創造を展開する、というかたちで、現実の世界と空想の世界を行ったり来たりしたわけです。この行ったり来たりをくりかえしてラセン状に発展していくありかたを否定の否定とよびます。ブランコのように行ったり来たりではなく、次から次へと複雑化し発展していく過程です。」
『弁証法はどういう科学か』(140-141頁)

 次に三浦は以下のやうな図を示す(実際の図とやや異る)。




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| |〜〜〜〜〜〜|―― |―――
| | 花が咲く  |だろ  | う |
| |〜〜〜〜〜〜|―― |―――
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  「客体のあり方は「花が咲く」と表現され、想像の世界の中でのクリちゃんの判断は「だろ」と表現されますが、ここでクリちゃんは現実の世界の自分に戻って、それまでの世界が未来の予想であることを「う」と表現します。普通「う」は未来そのものの表現であるかのように思われていますが、「う」自体は現実の世界の自分で表現しているので、それ以前の世界が未来であることを示しているにすぎません。「だろ」と「う」の間には、想像の世界の自分から現実の世界の自分へと立場の移行があり飛躍があって、この二つの単語は質のちがったものとして扱われなければなりません。」(142頁)

 それでは、宮下の言ふ「彼(三浦)は第一人称代名詞が表す話手と話手自身との関係が話手の観念的な自己分裂に基くことを指摘し」とはどういふことなのか。今度は『日本語はどういう言語か』(1976年改訂版、講談社学術文庫)から引用しよう。

   「さきに第一部第一章で、「夢」を見るときにはいつも人間の観念的な自己分裂が起ること、言語表現でも、想像を語る場合にはこの自己分裂によって観念的な話し手が成立することをお話ししました。<代名詞>について考えるときにも、この自己分裂を無視したのでは正しく理解することができません。一人称の場合、見たところ対象となっている自分と話し手は同一の人間です。しかし何かを対象としてとらえるということは、対象から独立してその対象に立ち向っている人間が存在しているということなのです。対象とそれに立ち向っている人間が同一の人間であることはできません。一人称の場合には現実に同一の人間であるように見えても、実は観念的な自己分裂によって観念的な話し手が生れ、この分裂した自分と対象になっている自分との関係が一人称として表現されるのです。「話し手と話し手自身との関係」というのは、このような認識の構造において成立しているのですが、<代名詞>の本質は話し手と対象との関係を表現するということで、その関係が現実に存在するか、それとも自己分裂によって観念的に成立したかは、本質と関係ありません。この自己分裂を理解できなかったフランスの作家や学者が、どんな珍妙な解釈をしたかは、あとでお話ししましょう。」(128-129頁)

 三浦つとむは唯物論者である。その認識論は反映論を基礎とする。すなはち、物質界がまづあり、生物が誕生し、やがて人間が進化して、物質界の事象を反映することで精神が成立し、発達したとする。しかし人間精神に特有の認識を論じる仕方の何と大胆であることか。確かに三浦は「精神に対する物質の究極的な優位」を認めはするが、つまりはそれだけで、論理の展開はほとんど観念論者とみまがふばかりである。三浦によれば、人間の認識といふのは、たえず分裂してゐて、それが常態であり、言い換へると目覚めながらたえず夢を見てゐるのである。それは現実の事物(物質界)が、人間に対して、過去を参照し(回想)、未来を見据ゑ(予想)ながら、現在が突きつける課題に対して決断するやう、たえず迫るためである。この過程で人間の認識は過去・現在・(想像上の)未来をめまぐるしく行き来し、時には科学やフィクションの力を借りて、人類が誕生する前の地球や、宇宙が誕生する瞬間について想像をめぐらしたり、遠い未来の人類が死に絶えた世界を空想したりする。それらはすべて目を開けて見る夢、人間の観念的自己分裂の産物なのである。

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