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2014年12月19日04:24

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宮下眞二 『英語文法批判』 (VI) 5A

5A

『英語文法批判』3章は「代名詞」である。本文の約半分を占めるこの章をうまく要約できる自信は、筆者にはない。本当に重要なのは、宮下の考への基礎をなす三浦つとむの認識論なので、その概要を記し、英語の代名詞論についてはごく簡単に説明することにする。

 代名詞 (pronoun) が「名詞の代用」をするといふ古い代名詞観を、イェスペルセンも宮下も拒否する。だがイェスペルセンは、内容的観点からの定義を断念して、語形と機能の観点から代名詞を検討した。イェスペルセン以後の構造言語学も、結局、代名詞の特徴を形式と機能に求めた。

  「イェスペルセンも構造言語学者も代名詞の内容の解明を放棄して,代名詞の特徴を専ら形式と機能に求めてゐる。その結果,内容が抽象的で所謂人称代名詞等と機能を等しくする語はどれも代名詞に含められることになつた。代名詞とはどういふ語か,その本質は何か。」
   (中略)
  「先づ誰もが代名詞と認めてゐる人称代名詞から吟味しよう。
   I, me, we, us, you (単数), you(複数), he, him, she, her (対格), it, they, them.
   これらの人称代名詞には数・格・性の区別があるが,これは代名詞の本質を成すものではない。英語は屈折語だから或る種の抽象的な内容が屈折で表される。それ故に英語の語は,その語の本質的な内容に屈折の内容を併せた立体的内容を持つ。例へば名詞は実体を表現するのに併せて数や属格をも表現する。動詞は動的属性を表現するのに併せて時制等をも表現する。これは屈折語の内容上の特徴である。」
  「では代名詞の本質的内容は何であらうか。
   名詞も人称代名詞も実体を対象とすることに変りはない。先づオットー・イェスペルセンを対象として,名詞で「オットー・イェスペルセン」「文法学者」「デンマーク人」等と表現した場合を検討してみよう。この場合は同一人物を対象としても表現が異つてゐる。ではどこが違ふであらうか。人間(実体)は多面的だからそれを捉へる側面が違へば認識も違つて来る。「オットー・イェスペルセン」と表現した場合には,イェスペルセンをその固有性の側面で捉へて居り,「文法学者」では彼の職業の側面で捉へて居り,「デンマーク人」では彼の国籍の側面で捉へてゐるのである。ではイェスペルセンを代名詞で「私」「あなた」「彼」等と表現した場合はどうであらうか。代名詞は対象たる実体の職業や国籍等が何であらうとそれに構はずに用ゐられる。名詞「文法学者」は文法学を職業とする者に対してしか用ゐられれないが,代名詞「私」や「あなた」は誰にでも用ゐられる。といふことは,名詞は実体を或る側面で捉へるのに対して,代名詞はさうではないと言ふことである。では代名詞は実体をどう捉へるのか。「私」と「あなた」と「彼」とを比べると,これらは対象のあり方には制約されないが,対象と話手との関係に制約される。即ち話手が話手自身を表すのに「あなた」や「彼」は用ゐない。同様に話手が聞手を表すのに「私」や「彼」は用ゐない。また話手が聞手以外の人物を表すのに「私」や「あなた」は用ゐない。これは代名詞が実体を話手との関係において捉へてゐることを示してゐる。だからこそ代名詞は名詞と違つて実体のあり方(属性)には制約されないのである。」 (89-91頁)

 そのすぐ後で宮下は時枝誠記『日本文法口語篇』(1950年)から引用する。

 「対人関係を表現する語には,「親」とか「兄」とか「先生」等の語があるが,これらの語は,必しも話手との関係の表現にだけ用ゐられるというものではない。聞手との関係に於いても,第三者との関係に於いても,「親を大切になさい。」といふ風に用ゐられる。ところが,「君は行きますか。」といふ場合の「君」は,必ず話手に対して聞手の関係に立つものに対してのみ用ゐられるのである。第一人称の代名詞は,話手が自分自身を話手といふ関係に於いて表現する場合にのみ用ゐられ,第二人称の代名詞は,話手が他者を聞手として(ママ)関係に於いて表現する時にのみ用ゐられ,第三人称の代名詞は,話手が他者を話題の事物としての関係に於いて表現する時にのみ用ゐられるのである。……このやうに見て来るならば,人称代名詞の特質は,話手との関係概念を表現するところにあると云ふことが出来る。」(下線は宮下による)

  「時枝のこの画期的な代名詞論は三浦つとむが受継ぎ発展させた。彼は第一人称代名   詞が表す話手と話手自身との関係が話手の観念的な自己分裂に基くことを指摘し,代名詞の背後にある認識の構造を明かにした(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』1956年)。」(92頁)

 ここに登場した「観念的な自己分裂」こそ、三浦つとむの認識論の最大の功績と筆者が考へるものである。逆にいふと、この概念が理解できなければ、三浦(および宮下)の言語過程説の肝心な部分を理解したことにならないし、これを認められなければ、すべてが空疎な伽藍に見えることだらう。

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