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2014年12月19日04:12

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宮下眞二 『英語文法批判』 (IV)  3(承前)

    3(承前)

 宮下の論述は、「2節 固有名詞の普通名詞への転化」において切れ味を増す。ここが固有名詞論の白眉である。彼はまづ、イェスペルセンの説を紹介する。

  「実際に理解される固有名が多くの属性を内包していなかったとしたら,われわれは固有名が普通名 (common names) [所謂普通名詞――引用者]になるという日常現象を理解または説明するのに困惑するであろう。あるフランス人がデンマークの少女に,お父さんのお仕事は何かと尋ねたところ,少女は,「彫刻家」というフランス語を知らなかったので,

(イ) Il est un Thorvaldsen en miniature. 小粒のトルワルセン(デンマークの有名な彫刻家)ですの。
と言ってその場を切り抜けた。
またオスカー・ワイルド (Oscar Wild) は次のように書いている。

(ロ) Every great man nowadays has his disciples, and it is always Judas Who (sic) writes the biography. 今日偉人は誰でも弟子をもっている。そしてその偉人の伝記を書くのはいつもユダである。----Intensions, 81.
  ――これは a Judas という言い方への過渡形である。ウォールター・ペイター (Walter Pater) はまたこう言っている。

(ハ) France was about to become an Italy more than Italian than Italy itself. フランスはイタリア以上にイタリア的なイタリアになろうとしていた。------Renaissance, 133.
  このようにして Caesar はローマ皇帝の一般名となり,ドイツの Kaiser, ロシアのtsar の名になった。(以下略)」

 以下は宮下の説である。「(イ)(ロ)(ハ)の例を見れば,いづれも,「固有名詞」が指してゐる対象はその「固有名詞」の本来指示すべき対象ではない。(イ)では<彫刻家としての父>を指して居り,(ロ)では<偉人の弟子>を指して居り,(ハ)では<フランス>を指してゐる。では対象をどの側面で捉へてゐるかと考へてみると,(イ)では「トルワルセン」の特徴である<彫刻家>と共通の側面で,(ロ)では「ユダ」の特徴である<師を裏切る弟子>と共通の側面で,(ハ)では「イタリア」の特徴(ルネサンス時代のイタリアの特徴か)と共通の側面で捉へてゐるのである。(ハ)に不定冠詞が付いてゐるのは,<ルネサンス時代のイタリアの特徴を持つた国>の一つといふ意識の現れであり,フランスをフランスの固有性の側面で捉へるのではなくて他の同種の物と共通の側面で捉へてゐる証拠である。これは(イ)についても同様であらう。」

 「これらが(イ)(ロ)(ハ)の「固有名詞」の直接の対象とその捉へる側面であるが,これと同時に忘れてはならないのは,これらの表現では,直接の対象と共に「固有名詞」の語彙が指定する対象をも,言はば間接の対象としてゐることである。即ちこれらの表現では,作者は先づ直接の対象を認識し,次にその対象の特徴から典型的事物を想起してそれをも認識し,次に対象をその典型と共通の側面で捉へて「固有名詞」の語彙を転用して表現するのである。それ故にこの「固有名詞」の背後には直接の対象の認識と典型的事物の認識との二重の認識があるのである。この転用がもつと進むと,直接の対象だけを指す普通名詞に転成する。「ローマ皇帝」を意味する ‘Caesar’ は普通名詞の例である。この場合には固有名詞の語彙 <Caesar> を普通名詞に転用したのではなく,固有名詞の語彙<Caesar> から転成した独自の普通名詞の語彙が特定のローマ皇帝の認識を,かつそれだけを,媒介してい(ママ)るのである。」(43頁)

 「3節 姓と名」では、一般に固有名詞とされる姓が、実は個人の固有性の側面ではなくて、家族に共通の法的側面で捉へてゐるから普通名詞である、と論じる。ただし、「姓は本来<家>を固有性の側面で取上げた<家>を表す固有名詞である。姓の語彙を人を表すのに用ゐる場合には,その人を或る<家>に属するといふ一般的側面で捉へて表す普通名詞に転化するのである。」(46頁)

 「4節 「内包」と「外延」」、「5節 固有名詞の複数化」と論じた後、「6節 普通名詞の固有名詞への転化」を取り上げる。宮下は言ふ。

  「固有名詞と普通名詞との相違は対象を捉へる側面にあるのだから,語の形式が普通名詞と同じであつても,対象をその固有性において捉へてゐるならば,それは固有名詞である。イェスペルセンが挙げた ‘The Union’ や ‘British Academy’ や ‘Royal Insurance Company’ は特定の団体をその固有性で捉へた固有名詞である。union, academy, company 等の普通名詞の語形が用ゐられてゐるのは,固有名詞の語彙を作る時に,対象の一般的側面を表す普通名詞の語彙を利用したためである。」(57頁)

  「定冠詞は対象の個別性の特殊的側面即ち特殊的個別性を表す。一方固有名詞は対象を固有性即ち他から区別された独自なものといふ側面で捉へるから,特殊的個別性を内容として含むことになる。それ故に一般に固有名詞には定冠詞が付加されないのである。普通名詞の固有名詞への転化について言へば,普通名詞では付加されてゐるた定冠詞が,固有名詞では「脱落」する。この「脱落」といふ形式上の差異はあくまでも,内容の転化の結果であり,この逆ではない。また the が付加されてゐるからと言つて常に限定の意識が表現されてゐるとは限らない。ロンドンの公園を指す ‘the Green Park’ は ‘the’ を含めた全体で一語の固有名詞なのである。」(58頁)

 定冠詞については「6章 冠詞」で詳しく論じられるが、すでに重要な論点がここに述べられてゐる。すなはち、定冠詞は「対象の特殊的個別性を表す」。これは宮下以前には誰ひとりとして指摘しなかつたことであり、宮下の学説の試金石となるものである。

 ここで、「個別性」「特殊性」と言はれてゐるものも、一種のテクニカルタームなので、すこし解説しておかう。「個別性」と「特殊性」、それに「普遍性」を合せた三幅対が、ヘーゲル論理学とそれを批判的に継承したマルクスの学説、さらにそれらを前提に認識論、言語論を建設した三浦つとむの方法的思考の基盤だつた。

 個別性は文字通り対象がそれ一個だけである状態の属性であり、ヘーゲル的に言ふと直接的感覚的な「即自的 an sich (アン・ジッヒ)」と呼ばれる状態である。モノが自分に即して(「自己に安らつて」)ゐて、それゆゑにある意味自己満足してゐる状態である。「特殊性」は、自己だけなく他のものが(比較の対象として)視野に入ることで、他者に反射された自分を意識し、自己意識が生じる「対自的 fuer sich (フューア・ジッヒ)」と呼ばれる状態である。「普遍性」は前二者を経て反省した意識が(ヘーゲルの用語を使へば前二者を「止揚」することで)到達する「即自的かつ対自的 an und fuer sich (アン・ウント・フューア・ジッヒ)」な状態であり、ヘーゲル流に言ふと、これが絶対的段階である。すなはち認識が、対象の現象性(個別性)と実体性(特殊性)を含みこみながら、それらを止揚し、本質(普遍性)に到達する、そのために遍歴するといふ図式が根本にある。

 上の説明は『精神現象学』にやや寄り添つた書き方(同書の副題は「意識経験の学」である)になつたが、俗に「正―反―合」などと呼ばれるヘーゲル弁証法の方法図式は基本的に同一で、マルクスはそれを受け継ぎ、相当意識的にそれを適用して『資本論』を構想した。3巻構成で1巻が「資本の形成過程」、2巻が「資本の流通過程」、3巻が「資本主義的生産の総過程」となつてゐるのも、もちろんそのやうに論ずるべきだと考へたのだらうが、教条的なまでに上の図式に沿つたものとも言へる。

 そして宮下が冠詞論を展開するにあたつて依拠したのも、上述のやうな思考方法であつた。ともあれ、「1章 固有名詞」は「6節 普通名詞の固有名詞への転化」で終了する。

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