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2014年12月19日04:08

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宮下眞二 『英語文法批判』 (III) 



 本論は、イェスペルセンの説を受けた著者独自の理論の展開である。

「1章 固有名詞 1節 固有名詞の本質」では、固有名詞の本質を明かにしようとする。まづ、イェスペルセンの『文法の原理』におけるジョン・スチュワート・ミルの説とそれに対するイェスペルセンの批判を紹介する。
(以下は半田一郎訳からの宮下の引用の引用)。
  「ミルに従えば、固有名 (proper names) [所謂固有名詞――引用者=宮下]は「内包的」 (connotative) ではない。固有名は,それによって呼ばれる個体を「表示」(denote) するが,いかなる属性をもその個体に属するものとして指示も暗示もしない。固有名詞は,われわれが何について話しているかを示すという目的に応えるもので,それについて何ごとかを語るという目的には応えないのである。一方,man というような名称は,Peter, James, John その他無数の個人を「表示」するのみならず,肉体性,動物としての生活,理性,形体,など,われわれが「人間的」と呼んで区別しているような或るいくつかの属性を「内包」する。(中略)」

  「私の考えの中で最も重要な点は,名称というものが話し手によって実際に用いられ聞き手によって実際に理解されるその仕方にある。(中略)きょう私が友人の一団に向って,Johnという名前を,そういう名前をもつ特定の男について用いたとて,あす別の仲間で全く別の個人についてこの名前を用いることを妨げるものではない。しかし,このどちらの場合でも,この名称は私の意図するとおりの意味を聞手の心に喚起するという目的を果すのである。ミルとその流れを汲む人たちは,名称の辞書的価値とでもいうべきものをあまりにも強調し,同時に,それが話されたり書かれたりする特定の場面における,それの文脈的価値をあまりにも軽んじている。[中略]ミルの術語を用い――しかし彼の意見とは全く反対に――私は敢えてこう言いたい。(実際に用いられるかぎりでの)固有名は最も多数の属性を「内包」するものであると。」

 次いで宮下は言ふ。「イェスペルセンが指摘したやうに,彼が友人を「ジョン」と呼んだ場合に、・・・話手であるイェスペルセンはジョンといふ特定の対象を認識してそれを固有名詞「ジョン」に表現してゐるのだから,その固有名詞は話手の特定の認識と,ひいては特定の対象と結付てゐる。言語の意味とはこの対象――認識――表現の客観的関係に他ならないから,固有名詞の意味には対象の具体的なあり方とその認識も含まれているのである。」(38頁)

 だがこれは、イェスペルセンの言ふやうに固有名詞に限つたことであらうか。否。「ジョン」ではなく「男」と表現した場合にも、それが「話し手によって実際に用いられ聞き手によって実際に理解されるその仕方」を吟味すれば、普通名詞「男」は話者の特定の認識とひいては特定の対象と結びついてゐるからだ。

  「イェスペルセンが「辞書的価値」と呼び,ミルが「内包」と呼んだものは,実は,語の意味ではなくて,語を媒介する語彙が指定する対象の一般的側面である。これを理解の過程において捉へれば,聞手が語彙に基いて立てる・対象のあり方の・予想,即ち意味の予想である。」(38頁)

  「イェスペルセンは固有名詞の「実際の意味」を吟味して,正当にも固有名詞も普通名詞と同じく「属性を『内包』する」ことを指摘した。さうすると,固有名詞と普通名詞とはどこが違ふのかが問題になる。どちらも「内包」を持つのだから,相違は他に探さねばならない。彼はそれを「内包」する属性の量の相違に求めて,「最も多数の属性を『内包』するもの」が固有名詞であり,それよりは少く「内包」するものが普通名詞であると主張した。しかし語の「実際の意味」を吟味すれば,同一の物体を対象として固有名詞と普通名詞で表現した場合には,両者の「内包する」属性の量に差は無い筈である。故にこれによつて固有名詞と普通名詞とを区別することは出来ない。」

 宮下の主張からすれば、ある対象を「ジョン」と表現しようが、「男」と表現しようが、同一の対象である限り、その「内包」が異るわけがない。それでは、固有名詞と普通名詞の相違はどこにあるのだらうか。

  「もう一度イェスペルセンの所謂「名称というものが話し手によつて実際に用いられ聞き手によつて実際に理解されるその仕方」を吟味してみよう。『文法の原理』の著者を固有名詞を用ゐて「オットー・イェスペルセン」と表現する場合と,普通名詞を用ゐて「文法学者」「デンマーク人」等と表現する場合とでは,どこが同じでどこが違ふのだらうか。イェスペルセンといふ個人を対象としてゐる点ではどちらも同じである。しかし対象を捉へる側面は同じではない。「文法学者」は職業の側面で捉へて居り,「デンマーク人」は人種または国籍の側面で捉へてゐる。では固有名詞「オットー・イェスペルセン」は対象をどの側面で捉へてゐるのか。序論で指摘したやうに,言語は対象を種類の側面即ち超感性的側面で捉へた表現である。固有名詞についても,固有名詞が取り上げる種類の側面を明らめねばならない。イェスペルセンは生れてから死ぬまでその姿形は変化し続けた。赤ン坊の彼と大学教授の彼とを比べたら,同一人とは思へぬ程であるが,一つの生命体としては一貫して居り同一であつた。この同一性即ちイェスペルセンの固有性は,一生変化し続けるイェスペルセンに共通の側面即ち種類の側面である。この側面でイェスペルセンを捉へて表現すれば固有名詞「オットー・イェスペルセン」になるのである。故に固有名詞と普通名詞との違は,対象を捉へる側面の違なのである。」(39頁)

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