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2015年08月06日23:27

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耳塚(みみづか)は、文禄・慶長の役の朝鮮、明兵の戦死者の耳、鼻を弔った塚である墓。

京都市東山区、豊国神社(とよくに)門前にある正面通沿いにある史跡で鼻塚とも呼ばれています。豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役1592年〜1598年)のうち、慶長の役で戦功の証として討ち取った朝鮮・明国人の耳や鼻をはなそぎし持ち帰ったものを葬った塚です。

古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれている。昭和44年(1969年)4月12日、「方広寺石塁および石塔」として国の史跡に指定された。当初は「鼻塚」と呼ばれていた。しかし林羅山がその著書『豊臣秀吉譜』の中で鼻そぎでは野蛮だというので「耳塚」と書いて以降、耳塚という呼称が広まったようである。2万人分の耳と鼻が埋められている。

この塚は慶長2年(1597年)に築造され、同年9月28日に施餓鬼供養が行われた。この施餓鬼供養は秀吉の意向に添って相国寺住持西笑承兌が行った物で、京都五山の僧を集め盛大に行われたようである。

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<京都五山の寺格>
南禅寺 - 別格
天龍寺 - 第一位※
相国寺 - 第二位※
建仁寺 - 第三位
東福寺 - 第四位
万寿寺 - 第五位(現在は、住職は韓国人で拝観はできません。)
http://www.bukkyo.net/5zan/kyoto5.htm

鎌倉時代末期頃から北条氏は南宋にならい五山制度を導入し鎌倉の寺院を中心とする五山を選定した。その構成は定かではないが、京都の寺院では建仁寺が当初の五山に含まれていたとされている。鎌倉時代後期に後醍醐天皇は討幕運動を起し、幕府滅亡後に後醍醐による建武の新政が開始されると五山も南禅寺と大徳寺を筆頭とする京都本位に改められた。足利尊氏が建武政権から離れて南北朝時代となると、尊氏や弟の足利直義などは禅宗を信仰したため、五山も足利将軍家が帰依していた夢窓疎石が中心となって京都の寺院から新たに制定された。数回の選定変更があったが、室町時代の1386年(至徳3)には3代将軍の足利義満が相国寺を創建した後に五山を京都五山と鎌倉五山に分割し、両五山の上に別格として南禅寺を置くという改革が行われた。僧録司制なども定めて住職の任命権などを掌握し、寺社の統制を行い幕府権威に宗教的側面を付加させた。

春屋妙葩や義堂周信らの五山僧は中国文化に通じ、また義満が日明貿易(勘合貿易)を行う際には外交顧問的役割も果たした。

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周囲の石柵は大正4年5月に歌舞伎役者をはじめとする当時の著名芸人達の寄付によって建立された物で、発起人は京都の侠客「伏見の勇山」と伝わる。なお塚前の焼香台・石段も彼の発起によって築造されたものである。

当時は戦功の証として、敵の高級将校は死体の首をとって検分したが、一揆(兵農分離前の農民軍)や足軽など身分の低いものは鼻(耳)でその数を証した。これをしないのを打捨という。また、運搬中に腐敗するのを防ぐために、塩漬、酒漬にして持ち帰ったとされる。検分が終われれば、戦没者として供養しその霊の災禍を防ぐのが古来よりの日本の慣習であり、丁重に供養された。<ウィキペディアより勝手に転用>

◎正面通を西に向う
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=2628902&owner_id=9873863
◎国立博物館西側の百日紅(サルスベリ)。色とりどりで美しい。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=422201186424409&owner_id=9873863
◎京都十六社朱印めぐり・豊国神社からスタート♪
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000094335798&owner_id=9873863
[豊国廟(ほうこくびょう)の桜]2015年04月01日
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000095028542&owner_id=9873863


豊国神社(御祭神豊臣秀吉)
慶長三年(1598)8月18日に死去した豊臣秀吉を祀る神社で、通称「ほうこくさん」。
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豊国神社
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豊国神社を背にして正面通を見る。手前の左右の通りは、大和大路通。
大和大路通沿いの昔の方広寺、今の豊国神社から西に延びる通りを正面通と呼びます。下京区の中央卸市場当たりまでかな?おって調べます。
なお、写真は、仕事の流れから撮影目的地が前後します。
(西から東へ順序よくの撮影は、無理。)
正面通りは「渉成園」「東本願寺」「西本願寺」にて、それぞれ分断されております。

正面は「か〜ごめ、かごめ・・♪」のわらべ唄にもでてくる正面通りのことです。秀吉が作った方広寺の大仏に突き当たる通りとして作られたので正面通りの名がついた。
大仏のなごりは、方向寺に展示しています。そして、七条大和大路の交差点角に在る交番の名前のみかな?
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耳塚。丘陵の頂上にひときわ大きな石塔が建っている。いつでも千羽鶴と花がある。
豊国神社から西へ50mくらい歩くと正面通の南側に耳塚が在る。
耳塚は、丘陵の頂上にひときわ大きな石塔が建っている。16世紀の末、秀吉が支配力を大陸へも伸ばそうと朝鮮半島へ進出した(文禄・慶長の役)。当時の武将は戦功の印として倒した相手の首を持ち帰る風習があった。半島へ進出した秀吉の部下は、首の代わりに鼻や耳を塩漬けにして持ち帰っている。秀吉は国が違えど、霊を厚く弔うべしとこの地に埋葬し「御身塚(おんみづか)」としたが、訛って「耳塚(みみづか)」と呼ばれるようになったとか。塚の前に立つと、痛々しい気持ちに陥る遺跡です。いつ通っても千羽鶴と献花がある。ときおりお祈りをしている人たちを見かけます。豊国神社近くに在るところが良い。
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いつも見物者がいます。いまでもお隣の国の方々が毎日のようにお参りしております。
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耳塚。豊臣秀吉は配下の軍勢を朝鮮へ侵攻させ朝鮮人の兵士の鼻や耳を切り取って戦功の証明とした。
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現在も、韓国から毎日のように参拝者が訪れて蛮人(日本人)の暴挙を恨み、子孫に恥辱の歴史を伝えている。文禄元(1592)年から翌年にかけて,慶長2(1597)年から翌年にかけて,豊臣秀吉は配下の軍勢を朝鮮へ侵攻させた。これを文禄・慶長の役という。この侵略を韓国では壬辰丁酉倭乱といい,朝鮮は膨大な損害を被った。
 日本軍は朝鮮の軍民の鼻を切り取り戦功の証明とした。この鼻は日本へ送られ,方広寺門前に鼻を埋め塚を造り,慶長2年9月28日に大法要が営まれた。この塚をはじめ鼻塚とよび,のちには耳塚と称した。江戸時代初めには塚の上に巨大な五輪塔が立てられた。
 明治31(1898)年は豊臣秀吉の三百年忌にあたり,豊公三百年祭が行われた。その時に耳塚とその周囲が整備された。秀吉を顕彰し,改修事業の経緯を示すために建立されたのが耳塚修営供養碑である。その時造られた石柵は当時の著名俳優が寄進したもので,役者名が刻まれている。耳塚の歴史については琴秉洞『増補改訂 耳塚』(総和社1994年刊)に詳しい。国指定史跡「方広寺石塁および石塔」(昭和44年指定)のうち。
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なにかと日本人は、韓国の人々を差別意識で上から目線でもの申す。京都は韓国から移住してきた渡来人によって造られたことを知らないのかな?京都遷都のスポンサーも朝鮮半島からやってきた秦氏一族。日本の天皇の中にも血を混ぜている。

仏教も朝鮮半島の百済から伝わった。中国大陸からも伝わった。当時の日本人が学んだ歴史がある。戦国時代を境に妙な関係になったもんだ。
しかし、現在の韓国は、日本人が知る以上に悲惨なもんだ。サムスンなどの有力な企業なども株主は、54%以上が他国籍企業。韓国の銀行も半数以上の株を持っているのも外国。
株主からの配当金高騰の要求に、韓国の人々は、低所得で働いているのが実情。
http://japanese.joins.com/article/827/202827.html

◎耳塚の﹁霊魂﹂をどう考えるか
http://shikon.nichibun.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/2195/3/03.pdf#search='京都+耳塚+慰霊祭'

一流大学を卒業しても優良企業に就職できるのは半分。現況の祖国に愛想をつかして海外に移住する優秀な学生達。しかーし、世界は、甘く無い。
異常な犯罪も犯し世界中から眉を背けられる。京都は、とくに在日が多く住んでいる。

◎京都朝鮮人耳(鼻)塚慰霊祭[撮影日:2015年10月29日]
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http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=2628902&owner_id=9873863
京都鼻塚(耳塚)公園で「壬辰戦争と京都鼻塚を考える会」主催のもと、慰霊供養集会が開催された。
1997年9月28日は京都「耳塚」が築造されて400年になる日である。京都「耳塚」400年行事実行委員会は在日本朝鮮社会科学者協会京都・大阪・兵庫・東海支部と<壬辰戦争と京都「耳塚」(鼻塚)を考える会>により構成された。社協京都支部は地元ということもあって行事実行委員会の構成メンバ−として精力的に行事に取り組んだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/jap41234/13108260.html
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